yupaloma03’s blog

聖書からの黙想などを書いていきたいと思います。

心を置く場所

先日の礼拝メッセージから感じたことを記したいと思います。

聖書箇所はルカによる福音書12:13~21「愚かな金持ち」のたとえについてでした。

しまい切れないほどの豊作を得て金持ちは喜ぶのですが、働いた成果なのですから、ルカによる福音書15:11~32にある放蕩息子と単純に比べれば良いと見えることでしょう。

彼は作物をしまう大きい倉を新しく建てて、全てを自分のものとしこれから先何年も生きて行くだけの蓄えができたから、ひと休みして食べたり飲んだりして楽しもうと自らに言います。

しかし、この金持ちは今夜のうちにこの世での命が尽きると言うのです。

用意したものは誰のものになるのかと主なる神は問いかけておられます。

聖書が常に伝えるメッセージは自分中心に生きる虚しさと過ちです。それは偶像礼拝の過ちとされます。

偶像礼拝は主なる神以外のものと関係する意味でしばしば姦婬の女にたとえられています。

選ばれた民は実際に偶像を作って礼拝したのですが、広い意味で神を忘れて肉なる自分を中心に生きることが偶像礼拝とされています。

肉なる自分中心の生き方とは神の霊に従う生き方と対極にある生き方です。

神は愛(第一ヨハネ4:8)なので愛のない生き方が神を忘れています。

聖書には滅びる生き方が痛烈に書いてあり、聞くに耐えない表記ですが、自分を省みる時に自分が自己中心に歩み出していないか確かめる助けとなります。

神を忘れ、他者を忘れ、無視して生きること、神を捨て、人を見捨ててしまう生き方に向かう傾向性が見つかれば方向転換しなくては、と思います。

目に見える他者についてなら、この他者のお陰だと思い起こすことが分かりやすいのかもしれません。

しかし、目に見えない神様を忘れるのは容易くて、しかもここから全ての方向性が決まっていくと思います。

豊かな作物や食べ物、着る物等の全てを神様から頂いて生きています。

その作物も食べる物も食べる人がいなければ何にもならないし、着る物も着る人がいなければ何にもなりません。

今日生きていて瀕死の重病でもなければ、食べる物や着る物を手にしないとならないと思うでしょうし、手にしても無駄にならないと信じることでしょう。

しかし、頂いているもののうち最も大切なものは神様が創造されて与えてくださった命なのです。

この自分の命がこの世でいつ絶えるかを、人間は何も知り得なません。

余計に得たとしても持ち物は無駄になります。こういった物への執着を捨てて、食べ物や着る物のない命を思いやるように導かれます。

この世での命を終えて塵となる以外に道はないのかと言ったら、そうではないと聖書は伝えています。

御子イエス・キリストを信じることで永遠に生きる命を神様は与えてくださいました。

永遠に生きて父なる神様を拝していくのです。

この神様の御国である天国を求めて生きるように主なる神様は望んでおられます。

神様は天国を与えてくださるからです。

「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」

ルカによる福音書12:3

アダムとエバの罪以来人間の務めとなったこと、生涯顔に汗を流して食べ物を得たり、苦しんで子供を産む(創世記3:16~19)必要はなくなります。

これらは一時的なものとなります。

愛し合う兄弟姉妹と共に永遠に神様を拝して生きていくのです。

神を拝するとは神に感謝をささげることです。

神様は命を創造してくださり、そして、天からの恵みの雨、生きるために必要な全てを与えてくださいます。

そして、本来持つ罪をイエス・キリストという究極の贈り物により滅ぼしてくださいました。

イエス・キリストを通して、神の国である天国を与えてくださいました。

この神様を自分一人でではなく、一人でも多くの他者と共に拝していくのです。

そのために豊かになることが見つかるでしょう。

朽ちてしまうものが何であるかも見分けられるようになることでしょう。

朽ちることのない富を積むべき場所は塵の行着く場所ではなくて天国です。

心をこの天国にいつも置くことで虚しい歩みを止めて行くことが可能となるのだと思いました。

心の中の戦い・御言葉は魂を救う

先日の礼拝で、牧師先生を通してお聞きしたメッセージをもとに記してみたいと思います。 聖書箇所はマタイによる福音書の13章にある「『種を蒔く人』のたとえ」でした。メッセージを伺いましたが、そこには大事なことがたくさん凝縮されている気がしました。

御言葉を聞いて悟るとはただ素直に信じて受け入れることなのだそうです。

主なる神様に対して素直に「はい」と答えて従うことです。

御言葉自体に力がありますから、私たちの内側に入って行く御言葉がどんなに力あるものであるか時間と共に明らかになって行くことでしょう。
ですから反対に、素直に「はい」と言えない時、どんなに残念な結果に結び付くかも明らかになって行くのではないでしょうか。

主なる神様の御言葉を聞いても「はい」と言わず従うことがないならば、悪い者(サタン)が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取ると聖書に書かれています。

サタンは神様と人間が結ばれる邪魔をする者であり、神様が真理であるのに対して、サタンは偽りです。 神様と私たち人間が素晴らしい結び付き方をし、愛が築き上げられる一番良い場面をサタンは邪魔します。

道端、石地、茨の中に蒔かれた種のたとえは私たちの人生のどこかにいずれも起こってしまうことです。

一方良い土地に蒔かれた種にたとえられる状態では、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶと書かれています。

どんな実りなのでしょうか。それは霊の結ぶ実りとされ、ガラテヤの信徒への手紙5:22~23に記されています。

「22これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、

23柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」

自分の心の中に何があるのかを絶えず、そしてよく吟味して行くと、サタンの攻撃を退ける鍵が見つかるのだと思います。

もしも、上にある霊の結ぶ実ではなく、肉の業でありよくありがちな敵意、怒り、争い、ねたみ、不和、利己心などが自分の心に見つかるのならば、そこにNOと言い素直に捨て去ることが必要です。

それらは従いなさいと仰る父なる神様が結ばせる実りではないからです。 神様は否は否、然りは然りのお方です。

「だから、あらゆる汚れやあふれる悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」

ヤコブの手紙1:21

「19肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、

20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、

21ぬたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。 以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことは出来ません。

ガラテヤの信徒への手紙5:19~21

神様はイエス・キリストの贖いを通して、信じる者が御国を受け継ぐことを望んでいらっしゃいます。様々な思いに乱れ、混乱してしまっても、神様は御国を受け継ぐために従うべきことを仰られています。 破滅へ向かうように攻撃する者が言うことを聞いてはなりません。

心の中に戦うべきものがひしめく日は確かにあるのです。 普段から神様への感謝、人への感謝をたくさん抱いて肉の思いから一刻も早く離れたいです。

部屋の掃除にたとえるとします。掃除を怠る日が長いと、一人では片付けられなくなるかもしれません。また、病気などで片付けたくても出来なくなることもあります。それでも捨てるべきものを見失わないことと掃除をした場所に住みたいと願い続けることだと思います。誰かに手伝ってもらってでも片付けて、生きる場所を御言葉による霊の思いが溢れる場所にしていきたいし、他の人へもそのようにお手伝いできる人になりたいです。良い土地に蒔かれた御言葉が豊かに実を結ぶように互いに願い合い、互いに助け合いたいです。

主なる神様が忍耐して待っていてくださる恵みに感謝しつつ、他者とともにひとつでも多くの信仰の実を結ぶ者となりたいと思いました。

それは永遠の命に至る道です。

原罪を贖うイエス様・永遠の命

 

(以前書いたものに書き足してみたいと思います。)

「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。
ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」
創世記2:16~17
「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」
創世記2:25
しかし、蛇に唆された女は実を取って食べ、男に渡し、男も実を食べてしまいました。
「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」
創世記3:7
このように、いちじくの葉で腰を覆う二人は神を恐れて、隠れるのです。
完全な愛は恐れを締め出します。(ヨハネの手紙一4:18より)
概して言うなれば、無邪気な乳飲み子は自分の非が分からないために全く父を信頼し、自分が愛されていることを疑い得ません。
彼らが善悪を見分けられるようになるとは、父なる神の厭うことが何であるかを知り、且つ行わずにいられなくなることでした。
そして、父なる神からの罰を恐れているのです。
父なる神と完全な愛で結ばれていた関係が壊れてしまいました。
神は言われます。
「『塵にすぎないお前は塵に返る。』」
創世記3:19より
しかし、この後のことです。いちじくの葉で覆うような哀れな二人に神は皮の衣を作って着せたのです。
「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」
創世記3:21
裏切ってしまった二人は悲しく、父なる神も悲しかったと思います。
しかし、裏切ってしまった二人への父なる神の神性の現れは憐れみ深い愛であることに気付きます。
愛のほかに神性には義と聖があります。
何となく誤魔化すようなあやふやさはなくて、
罪は罪として処断される厳しさも現されています。
この『塵にすぎないお前は塵に返る』しかなくなってしまった現実を父なる神ご自身が悲しまれているように思えます。
子供を憐れむ父の悲しみを感じます。
父なる神はご自身をささげて裏切ってしまった子供(人間)を救いました。
これがご自分と等しい御子イエス・キリストを十字架に架けてしまうことでした。
御子イエス・キリストは人間が受けるはずの罰を身代わりになって負うために十字架で苦しまれ死にました。
そして、復活されました。
塵に返るしかない人間をイエス・キリストの復活により、塵に返るだけでなく新たによみがえり、永遠の命に生きるようにしてくださいました。
塵と永遠の命を生きる者との違いをもう少し考えてみたいと思います。

 詩編30編の御言葉に以下のように書いてあります。
「わたしが死んで墓に下ることに
何の益があるでしょう。
塵があなたに感謝をささげ
あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。」
詩編30:10
塵であるならば、主を礼拝することが叶いません。
しかし、永遠の命に生きるならば、
「わたしの魂があなたをほめ歌い
沈黙することがないようにしてくださいました。
わたしの神、主よ
とこしえにあなたに感謝をささげます。」
詩編30:13
とこしえに主なる神を礼拝することになります。
永遠の命に生きて何をするのだろうかと思っていたことがあるのですが、
この箇所を読んでから、永遠に主なる神を礼拝し続けることではないかと思うようになりました。
以下は旧約聖書イザヤ書の御言葉ですが、やがて来てくださるイエス・キリストを指し示しているようです。


「2乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。
見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
3彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
4彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
5彼が差し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
6わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。」
イザヤ書53:2~6


「12多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。」
イザヤ書53:12より


「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」
ヨハネの手紙一4:19


イエス・キリストの贖いを通して父なる神様の愛を覚え、真の礼拝者となれるように祈り求めていきたいと思いました。

父なる神と人間の関係・神は愛なり

「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。
ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」
創世記2:16~17(旧約聖書のことば)

「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」
創世記2:25 旧約聖書のことば)

しかし、蛇に唆された女は実を取って食べ、男に渡し、男も実を食べてしまいました。 

「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」
創世記3:7 旧約聖書のことば)

このように、いちじくの葉で腰を覆う二人は神を恐れて、隠れるのです。

完全な愛は恐れを締め出します。(ヨハネの手紙一4:18より)

無邪気な乳飲み子は自分の非が分からないため、全く父を信頼し、自分が愛されていることを疑いません。

彼らが善悪を見分けられるようになるとは、このように父なる神の厭うことが何であるかを知り、且つ行わずにいられなくなることでした。

そして、父なる神からの罰を恐れているのです。

父なる神と完全な愛で結ばれていた関係が壊れてしまいました。
神は言われます。
「『塵にすぎないお前は塵に返る。』」
創世記3:19より(旧約聖書のことば)
しかし、この後のことです。いちじくの葉で覆うような哀れな二人に神は皮の衣を作って着せたのです。
「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」
創世記3:21旧約聖書のことば)
裏切ってしまった二人は悲しく、父なる神も悲しかったと思います。しかし、裏切ってしまった二人への父なる神の神性の現れは憐れみ深い愛であることに気付きます。

愛のほかに神性には義と聖があります。

何となく誤魔化すようなあやふやさはなくて、 罪は罪として処断される厳しさも現されています。

この『塵にすぎないお前は塵に返る』しかなくなってしまった現実を父なる神ご自身が悲しまれているように思えます。

子供を憐れむ父の悲しみを感じます。

父なる神はご自身をささげて裏切ってしまった子供(人間)を救いました。

これがご自分と等しい御子イエス・キリストを十字架に架けてしまうことでした。

御子イエス・キリストは人間が受けるはずの罰を身代わりになって負うために十字架で苦しまれ死にました。そして、復活されました。

塵に返るしかない人間をイエス・キリストの復活により、塵に返るだけでなく新たによみがえり、永遠の命に生きるようにしてくださいました。

 

「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」

ヨハネの手紙一4:19(新約聖書のことば)

主イエス様は何処に・変容

「1六日の後、イェスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
2イェスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。
3見ると、モーセエリヤが現れ、イェスと語り合っていた。
4ペトロが口をはさんでイェスに言った。
『主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。
お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。
一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』
5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。
すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた。
6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
7イェスは近づき、彼らに手を触れて言われた。
『起きなさい。恐れることはない。』
8彼らが顔を上げて見ると、イェスのほかにはだれもいなかった。

マタイによる福音書17:1~8

イエス・キリストの変容の箇所です。
ペトロは自分でも何を言っているか分からなかったのだそうです。
弟子たちは非常に恐れてひれ伏していました。
モーセとエリヤは消えましたが、イエス・キリストだけが弟子たちと共におられました。
『イェスのほかにはだれもいなかった。』
モーセとエリヤに対し、イエス・キリストという方が全く異なる存在であることが分かります。
わたしたちが聞き従うべき神の御子です。
人間の姿をしておられますが、神です。
この後、十字架に架けられて死なれ、よみに下り、三日目に復活させられますか、イエス・キリストは弟子たちの前で昇天されます。
それではイエス・キリストはもう見ることが出来ないし、共におられると感じられないのではと思えますが、どうでしょうか。

『わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。』」
ルカによる福音書24:49

約束されたものとは聖霊のことです。この聖霊により、イエス・キリストは弟子たちと私たちにそのご臨在を現されています。

私は聖霊を求めます。イエス・キリストのご臨在を悟らなければ不安で仕方がない時があるのです。主は約束してくださったとおりに聖霊を与えてくださるのです。

 

主イエス様は何処に・インマヌエル預言から

 

「22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。』
この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」
マタイによる福音書1:22~23(新約聖書のことば)

「10主は更にアハズに向かって言われた。
11『主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。』
12しかし、アハズは言った。
『わたしは求めない。
主を試すようなことはしない。』
13イザヤは言った。
ダビデの家よ聞け。
あなたたちは人間に
もどかしい思いをさせるだけでは足りず
わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
14『それゆえ、わたしの主が御自ら
あなたたちにしるしを与えられる。
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ。』」
イザヤ書7:10~14(旧約聖書のことば)

「31『そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。

32神はこのイェスを復活させられたのです。」
使徒言行録2:31~32より(新約聖書のことば)

イエス・キリストは十字架に架かり、御苦しみを受けられ死んだ後、陰府に下られました。
その上で三日目に復活されました。
陰府とは死後に行く場所ですが、その意味は絶望の淵であり何も無い虚無の世界であると聞きます。
私が絶望の縁に陥った時に、何も無い、誰も居ないという世界があるはずでしたが、イエス・キリストがこの陰府にいらっしゃるというのです。イエス・キリストが共におられるのなら陰府は最早陰府ではなくなります。
インマヌエルの主なる神はイエス・キリストであり、我々と共におられる神です。
私がどこに行っても共におられる、死の世界に行っても陰府に行ってもイエス・キリストはとことん寄り添い、共に居てくださるのだと思います。死の世界も最早死の世界であり得なくなります。
なぜイエス・キリストという王様は、どこまでも低さを極められるのか不思議です。
神様の愛と恵みというものが、限界ばかりが付きまとう人間の思いを遥かに超えた偉大なものであることが迫って来ます。
イザヤ書にある通り、主はアハズに向かって神に対してしるしを求めるように言われました。
しるしを高い天の方にだけ求めるのではなく、深い陰府の方にも求めなさいということでした。
しかし、人間がしるしを求めることは神を試すことでもあります。
律法では神様を試すことが禁じられています。アハズは主の求めを拒んでしまいました。

それゆえ主なる神様自らがわたしたちにしるしを与えられることになるのだとイザヤは預言しました。
そのしるしはインマヌエルの神である御子イエス・キリストのご降誕から始まります。そして十字架でのご受難と死、陰府に下り復活なさったこと、天に昇られ父なる神の右の座に坐すことに至ります。
こうして、『神は我々と共におられる』という意味のなかに、
陰府に求めてもイエス・キリストは共に居てくださるし、天に求めてもイエス・キリストは共に居てくださるのだという意味があることが明らかとなります。

このインマヌエル預言を通して、イエス・キリストが「共におられる神」であるがゆえに人間が死んで陰府へ下ることの意味が全く変えられたことを知ります。さらにキリストが復活されたのだという事実は、信じる者を共におられるキリストが自らと同じように復活の命へ引き上げるのだということを明らかにします。復活とは天の御国へ帰り永遠の命に至ることであり、イエス・キリストが共におられる世界ですべてが完成されるのだと思いました。

総督ピラトの問い掛け

 

「そこでピラトが、『それではやはり王なのか』と言うと、イエスはお答えになった。『わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆わたしの声を聞く。』

ピラトは言った。『真理とは何か。』」

ヨハネによる福音書18:37~38

イエス様にピラトが『真理とは何か。』と尋ねますがこの後イエス様の答えは書かれておらず、いったん場面が途切れます。

ピラトはイエス様に何の罪も見いだせませんでした。しかし、ユダヤ人たちはイエス様を十字架につけろと叫びます。

ユダヤ人たちは答えた。『わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。』

ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、『お前はどこから来たのか』とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。

そこで、ピラトは言った。『わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。』

イエスは答えられた。『神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。』そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、たちは叫んだ。『もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。』」

ヨハネによる福音書19:7~12

結局ピラトはこのように訴えるユダヤ人たちに押されるようにしてイエス様を十字架につけるために彼らに引き渡してしまいます。

ピラトの『真理とは何か』という問い掛けに対するイエス様のお言葉は以下

のような意味ではないかと考えます。

「わたしを十字架につける権限を持っているのはピラト、あなたではない。

神から与えられたわたしを十字架につける権限はわたしが神から与えられている。

『わたしは神の独り子メシアである』これがあなたが問うている真理である」

 イエス様は自ら十字架に向かいます。十字架から降りることもしませんでした。

これがメシア=キリストという王の唯一の統治です。

貧しい馬小屋で生まれたのはこの真理を実際に現すためだったのです。

わたしたちがイエス様を神の独り子メシアとして信じるならばイエス様の御声が聞こえる、そして聞き従うと書かれているのだと思います。

そのことを信じて耳を澄まして行きたいです。