yupaloma03’s blog

聖書からの黙想などを書いていきたいと思います。

立ち帰って、生きよ

「『21悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。
22彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。
23わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。
24しかし、正しい人でも、その正しさから離れて不正を行い、悪人がするようなすべての忌まわしい事を行うなら、彼は生きることができようか。彼の行ったすべての正義は思い起こされることなく、彼の背信の行為と犯した過ちのゆえに彼は死ぬ。』」
エゼキエル書18:21~24(旧約聖書のことば)


「31『お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。
32わたしはだれの死も喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」
エゼキエル書18:31~32(旧約聖書のことば)


エレミヤ書エゼキエル書ではエルサレムの陥落と荒廃にまつわる言葉が綴られ、読んでいて怖くなることが多くあります。
自分の罪や過ちというものを思い起こして重ねてみたりしますが、なかなか主が何を仰られているかを悟ることが難しいのです。
しかし、徐々に、旧約聖書のことばそのものの中にイエス・キリストが仲介者として存在されていることは分かって来ました。

『お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。』
この新しい心と新しい霊がイエス・キリストにより、完成された新しさなのだと思います。


「2あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
3わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。
4というのはわたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、
5わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」
ローマの信徒への手紙12:2~5(新訳聖書のことば)

 

クリスチャンになってからは罪や過ちを犯さなくなるかというと、私はそうではないです。
キリストにより罪が何であるかを悟るようになるために、罪が分かるから罪を犯さなくなるという理論があるのかもしれません。
けれども、人に言われぬ理由があるとはいえ、私自身は他の方々が神様に熱心に仕える姿勢に追い付いて行けずに、不信仰と言われても仕方ない遅々滞滞の日々を送っていたと思います。
教会について行かれないという淋しさも感じています。
そこからいい加減になって堕落しそうになっていることを認めて、まず主に対して繰り返し悔い改めをして行きたいと思います。
まず、一方的な主の憐れみを感じることが始まりのようです。
私が不信仰な状態にある時でさえ、主は私がどうであるかより、主が私をご自分が選ばれたイスラエルの民に加え、イエス・キリストにより、ご自分の霊的な民としてくださったことと、私が神様が主であることを知ることになると言われるのだと思います。
そして、生きよ、と言われるのだと思います。
立ち帰って、生きよと言われるのだと思います。
帰る場所があり待っていてくださる方がいらっしゃるとは素晴らしいことだと思います。
永遠なる神様は毎日生きていらしてご自身の慈しみと厳しさを考えるように教えてくださると思います。 

また、主イエス・キリストが死んだと思われた会堂長の娘を生き返らせた場面で主イエス・キリストがこう言っておられる記述があります。


「54イェスは娘の手を取り、『娘よ、起きなさい』と呼びかけられた。
55すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。」
ルカによる福音書8:54~55(新訳聖書のことば)


生き返らせた主は『起きなさい』と仰られています。
霊が正しく戻ったという完全な主イエス・キリストによる癒しの結果、どうなるのでしょうか。
主の起きなさいという呼びかけに応えてすぐに起き上がる必要があることが分かって来ます。
起き上がるということは単なる動作ではなく、主に立ち帰って生きることを表していると感じました。しかも、主が呼びかけておられならばすぐにそうする必要があると気が付きます。12歳の娘が悔い改めるべき罪びとであったとは考えにくいです。ですから人間側から安易に過ちがある、無しを考えると上手くいかないのではないかと思います。原罪からいえば私たちは皆同じに悔い改め続け立ち帰り続けるように主が定めておられると感じます。

イエス様は私達の心に何かを書いておられる

「3そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4イェスに言った。 『先生、この女は姦通をしているとき捕まりました。 5こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。 ところで、あなたはどうお考えになりますか。』 6イェスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。 イェスはかがみ込み、指で地面に何かを書き始められた。 7しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イェスは身を起こして言われた。 『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』 8そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イェスひとりと、真ん中にいた女が残った。 10イェスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』 11女が、『主よ、だれも』と言うと、イェスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』。」
ヨハネによる福音書8:3~11

イエス・キリストは屈んで地面に何かを書いていました。 一体イエス・キリストは何を書いていたのでしょう。

この辺りの記述について、以前牧師先生がご自分の想像するところを述べていらっしゃいました。

御言葉をあまり勝手に解釈してはいけないと思いますが、牧師先生も想像されるなら大丈夫かもしれないと思いました。

それで私も想像してみようと思います。

まず、女に対してご自分がどうされるおつもりかを示されていると感じます。

以前から存在する律法によれば死罪となる姦通罪です。

その姦通の罪が目の前にありますが、そこに居合わせていながら、罪への裁きに対しては完全に関係を異にされているように感じます。

そしてもうひとつ、一人、また一人と去って行く人達の心の中に律法が書かれて行く気がします。

律法は人の心に罪を刻み付ける働きがあると思います。

全ての人間には自らの罪状書きがありますから、女を使ってイエス・キリストを陥れようと憎悪する人達は皆自らの罪状書きがあることに気が付いたのだと思います。

この中で唯一イエス・キリストだけには書くべき自らについての罪状書きがありません。

イエス・キリストは女にも憎悪する人達にも上からではなく、身を屈めて低い場所から何かをされていたのです。

女からも憎悪する人達からも決して離れず寄り添われていました。

身を屈めて小さな子供のように、父なる神に示された通りに真っ直ぐに従順に書いておられたのだと思います。

「33しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。 すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。 わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 34そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。 彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。 わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない。」
エレミア書31:33~34

人を憎むことと殺すことに平安はないです。

イエス・キリストを憎み、何とかして陥れようとする彼らも、女同様に罪の奴隷としての哀れな存在として浮かび上がる気がします。

「9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イェスひとりと、真ん中にいた女が残った。 10イェスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』
11女が、『主よ、だれも』と言うと、イェスは言われた。
『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』。」

全ての空気が全く新しいものに変えられたこの場面が、エレミア書の預言の御言葉を想起させます。
また、ヘブライ人への手紙8:8~12にこのエレミア書の預言の言葉が再び書かれています。
そこからもイエス・キリストがどういうお方かをさらに深く読み取ることが出来ると思います。

確かにイエス・キリストは女と立ち去って行った敵を罪の赦しにより癒し、清められたと思います。

イエス・キリストは低い場所で寄り添いながら、私たちの心に律法を新しい契約として完成されたかたちで記し続けておられるのだと思いました。

ありがとうございます。明日へ向けてもう寝ます。

「2上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。
3あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内にに隠されているのです。
4あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
5だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
6これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。
7あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。
8今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。
9互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、
10造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」
コロサイの信徒への手紙3章2~10節

密室で虐められる日常の中にあり、どうしても相手に怒りが込み上げ、悪い言葉が止まらなくなり、やはり自分は地獄行きなのかという悲惨な思いに駆られていました
相手は密室以外ではそのようなことをしませんので誰かに言っても無駄となって既に長い年月が流れました。
我慢とある程度の抵抗を繰り返しましたが、相手のそうした一部分はそうそう変わるはずもなく、諦めがちな日常も限界となりました。
目まぐるしく変わる相手に合わせなくてはならないので、目まぐるしく赦す、笑顔を向ける、怒る、罵る、笑顔、となり、私は殆ど気がおかしい人です。
世の中このようなものであり、私がおかしいのかもしれないと思う事も生じました。 実際に私にはおかしいところがあります。
傷ついているかどうかも確認出来ないまま、立ち直る事で、ますます気がおかしくなるばかりと感じました。
み言葉に照らしてみては、「休んで自分を癒すために音楽を聴いたのがいけなかったのでしょうか神様。 私は余計なことをしていませんでしたか。 貪欲だったのでしょうか?怒りが消えません。限界です。何がなんだか分かりません。」そう思い乱れて苦しんでいました。
しかし、もう限界だ、殺されてしまうと怒りながらこのようなみ言葉を読んでいましたら、あることに気が付きました。
「あ、私はもう死んでいたのだ」ということです。
うそはいけません。 私はとても傷ついていて、可哀想だと思う必要がありました。
うそはいけません。 密室虐めを正当化したらつじつまが合わないことをどんどん飲み込むようになり、気がおかしくなって破綻します。
しかし、もう死んでいたのなら、このような怒りや罵る言葉は死体と共に私から消えたのです。
相手に殺されるのではなくてキリストによって既に死んでいたのです。
キリストの十字架の死にあずかるとは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないという意味でした。
肉の思いもろとも自らの罪を滅ぼすことでした。
このようなみ言葉に従うことは不可能だと思いました。
しかし、自分が傷ついていて、可哀想だと思う事の次には、
相手のやり方とではなくて、神様と対話したいと思いました。
短時間で支離滅裂に立ち直るのではなく、神様の摂理に従って立ち直ることを得ました。
感謝いたします。
その先は神様の摂理が教えてくださると信じて短時間のうちにもう寝ます。明日へ向けて。
ありがとうございます。

み国をもたらす祈り・主の祈り

主の祈り

天にまします我らの父よ、
ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。
み国を来らせたまえ。
み心の天になるごとく
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を
我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救い出したまえ。
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

主の祈りは朝目覚めたら一番に祈っています。

寝ている間も主なる神様はまどろむことなく、守ってくださったと思います。

朝息を自然に出来ていることが奇跡のように思えます。

しかし、朝一番のこの祈りに心がこもっているかというと、正直言いまして唱えているだけの時が殆どです。

今日牧師先生の礼拝メッセージのなかで、この主の祈りに関するお話がありました。

『我ら』とは、具体的に誰を指すのかという問題です。

『我ら』とは、教会内の人とか同胞とか家族や友人だけではなくて全人類を指しているのだということでした。

『我らの日用の糧を今日も与えたまえ。』と祈るにあたり、日本の国にいることで、食べることや飲むことが出来ない人に思いを馳せることが難しくなっているかもしれません。しかし、全人類のためだというのであれば、飢えに苦しむ人に祈らなければならないことに気づきます。もっと真剣に祈らなければ、と思います。

イエス・キリストが降誕し全人類の罪を購ってくださったように、この主の祈りも主なる神様が全人類のために与えてくださったのです。

我が身を省みても、人間である以上、他者をないがしろにしてしまうことが避けられないけれども、主なる神様は私たち人間に対し、誰をもないがしろになさらない憐れみ深いお方だと気づきます。

主なる神様がまどろむことなく、守ってくださるお方であること、

今日この朝に主の憐れみが注がれていること、

祈ることがゆるされていること、

誰かに祈られたこと、

ゆるしていただいたこと、

ゆるせたこと、

いただいたもの、

お借りしているもの、

たくさん感謝していきたいと思います。

毎日毎日全人類で祈りあわせていけば、おぐらきこの世にもみ国への道が開かれるかもしれません。

『実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。』という御言葉がありますが、((ルカ17:21)この神の国であるみ国をもたらすための秘義が、『主の祈り』に宿されているように思います。

心を置く場所

先日の礼拝メッセージから感じたことを記したいと思います。

聖書箇所はルカによる福音書12:13~21「愚かな金持ち」のたとえについてでした。

しまい切れないほどの豊作を得て金持ちは喜ぶのですが、働いた成果なのですから、ルカによる福音書15:11~32にある放蕩息子と単純に比べれば良いと見えることでしょう。

彼は作物をしまう大きい倉を新しく建てて、全てを自分のものとしこれから先何年も生きて行くだけの蓄えができたから、ひと休みして食べたり飲んだりして楽しもうと自らに言います。

しかし、この金持ちは今夜のうちにこの世での命が尽きると言うのです。

用意したものは誰のものになるのかと主なる神は問いかけておられます。

聖書が常に伝えるメッセージは自分中心に生きる虚しさと過ちです。それは偶像礼拝の過ちとされます。

偶像礼拝は主なる神以外のものと関係する意味でしばしば姦淫の罪にたとえられています。

選ばれた民は実際に偶像を作って礼拝したのですが、広い意味で神を忘れて肉なる自分を中心に生きることが偶像礼拝とされています。

肉なる自分中心の生き方とは神の霊に従う生き方と対極にある生き方です。

神は愛(第一ヨハネ4:8)なので愛のない生き方が神を忘れています。

聖書には滅びる生き方が痛烈に書いてあり、聞くに耐えない表記ですが、自分を省みる時に自分が自己中心に歩み出していないか確かめる助けとなります。

神を忘れ、他者を忘れ、無視して生きること、神を捨て、人を見捨ててしまう生き方に向かう傾向性が見つかれば方向転換しなくては、と思います。

目に見える他者についてなら、この他者のお陰だと思い起こすことが分かりやすいのかもしれません。

しかし、目に見えない神様を忘れるのは容易くて、しかもここから全ての方向性が決まっていくと思います。

豊かな作物、食べ物や着る物等の全てを神様から頂いて生きています。

その作物、食べる物も食べる人がいなければ何にもならないし、着る物も着る人がいなければ何にもなりません。

今日生きていて瀕死の重病でもなければ、食べる物や着る物を手にしないとならないと思うでしょうし、手にしても無駄にならないと信じることでしょう。

しかし、頂いているもののうち最も大切なものは神様が創造されて与えてくださった命なのです。

この自分の命がこの世でいつ絶えるかを、人間は何も知り得ません。

余計に得たとしても持ち物は無駄になります。こういった物への執着を捨てて、食べ物や着る物のない命を思いやるように導かれます。

この世での命を終えて塵となる以外に道はないのかと言ったら、そうではないと聖書は伝えています。

御子イエス・キリストを信じることで永遠に生きる命を神様は与えてくださいました。

永遠に生きて父なる神様を拝していくのです。

この神様の御国である天国を求めて生きるように主なる神様は望んでおられます。

神様は天国を与えてくださるからです。

「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」

ルカによる福音書12:3

アダムとエバの罪以来人間の務めとされた生涯顔に汗を流して食べ物を得たり、苦しんで子供を産むこと(創世記3:16~19)の必要はなくなります。

これらは一時的なものとなります。

愛し合う兄弟姉妹と共に永遠に神様を拝して生きていくのです。

神を拝するとは神に感謝をささげることです。

神様は命を創造してくださり、そして、天からの恵みの雨、生きるために必要な全てを与えてくださいます。

そして、本来持つ罪をイエス・キリストという究極の贈り物により滅ぼしてくださいました。

イエス・キリストを通して、神の国である天国を与えてくださいました。

この神様を自分一人でではなく、一人でも多くの他者と共に拝していくのです。

そのために豊かになることが見つかるでしょうし、朽ちてしまうものが何であるかも見分けられるようになるでしょう。

朽ちることのない富を積むべき場所は塵の行着く場所ではなくて天国です。

心をこの天国にいつも置くことで虚しい歩みを止めて行くことが可能となるのだと思いました。

心の中の戦い・御言葉は魂を救う

先日の礼拝で、牧師先生を通してお聞きしたメッセージをもとに記してみたいと思います。 聖書箇所はマタイによる福音書の13章にある「『種を蒔く人』のたとえ」でした。メッセージを伺いましたが、そこには大事なことがたくさん凝縮されている気がしました。

御言葉を聞いて悟るとはただ素直に信じて受け入れることなのだそうです。

主なる神様に対して素直に「はい」と答えて従うことです。

御言葉自体に力がありますから、私たちの内側に入って行く御言葉がどんなに力あるものであるか時間と共に明らかになって行くことでしょう。
ですから反対に、素直に「はい」と言えない時、どんなに残念な結果に結び付くかも明らかになって行くのではないでしょうか。

主なる神様の御言葉を聞いても「はい」と言わず従うことがないならば、悪い者(サタン)が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取ると聖書に書かれています。

サタンは神様と人間が結ばれる邪魔をする者であり、神様が真理であるのに対して、サタンは偽りです。 神様と私たち人間が素晴らしい結び付き方をし、愛が築き上げられる一番良い場面をサタンは邪魔します。

道端、石地、茨の中に蒔かれた種のたとえは私たちの人生のどこかにいずれも起こってしまうことです。

一方良い土地に蒔かれた種にたとえられる状態では、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶと書かれています。

どんな実りなのでしょうか。それは霊の結ぶ実りとされ、ガラテヤの信徒への手紙5:22~23に記されています。

「22これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、

23柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」

自分の心の中に何があるのかを絶えず、そしてよく吟味して行くと、サタンの攻撃を退ける鍵が見つかるのだと思います。

もしも、上にある霊の結ぶ実ではなく、肉の業でありよくありがちな敵意、怒り、争い、ねたみ、不和、利己心などが自分の心に見つかるのならば、そこにNOと言い素直に捨て去ることが必要です。

それらは従いなさいと仰る父なる神様が結ばせる実りではないからです。 神様は否は否、然りは然りのお方です。

「だから、あらゆる汚れやあふれる悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」

ヤコブの手紙1:21

「19肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、

20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、

21ぬたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。 以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことは出来ません。

ガラテヤの信徒への手紙5:19~21

神様はイエス・キリストの贖いを通して、信じる者が御国を受け継ぐことを望んでいらっしゃいます。様々な思いに乱れ、混乱してしまっても、神様は御国を受け継ぐために従うべきことを仰られています。 破滅へ向かうように攻撃する者(サタン)が言うことを聞いてはなりません。

心の中に戦うべきものがひしめく日は確かにあるのです。 普段から神様への感謝、人への感謝をたくさん抱いて肉の思いから一刻も早く離れたいです。

部屋の掃除にたとえるとします。掃除を怠る日が長いと、一人では片付けられなくなるかもしれません。また、病気などで片付けたくても出来なくなることもあります。それでも捨てるべきものを見失わないことと掃除をした場所に住みたいと願い続けることだと思います。誰かに手伝ってもらってでも片付けて、生きる場所を御言葉による霊の思いが溢れる場所にしていきたいし、他の人へもそのようにお手伝いできる人になりたいです。良い土地に蒔かれた御言葉が豊かに実を結ぶように互いに願い合い、互いに助け合いたいです。

主なる神様が忍耐して待っていてくださる恵みに感謝しつつ、他者とともにひとつでも多くの信仰の実を結ぶ者となりたいと思いました。

それは永遠の命に至る道です。

原罪を贖うイエス様・永遠の命

 

(以前書いたものに書き足してみたいと思います。)

「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。
ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」
創世記2:16~17
「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」
創世記2:25
しかし、蛇に唆された女は実を取って食べ、男に渡し、男も実を食べてしまいました。
「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」
創世記3:7
このように、いちじくの葉で腰を覆う二人は神を恐れて、隠れるのです。
完全な愛は恐れを締め出します。(ヨハネの手紙一4:18より)
概して言うなれば、無邪気な乳飲み子は自分の非が分からないために全く父を信頼し、自分が愛されていることを疑い得ません。
彼らが善悪を見分けられるようになるとは、父なる神の厭うことが何であるかを知り、且つ行わずにいられなくなることでした。
そして、父なる神からの罰を恐れているのです。
父なる神と完全な愛で結ばれていた関係が壊れてしまいました。
神は言われます。
「『塵にすぎないお前は塵に返る。』」
創世記3:19より
しかし、この後のことです。いちじくの葉で覆うような哀れな二人に神は皮の衣を作って着せたのです。
「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」
創世記3:21
裏切ってしまった二人は悲しく、父なる神も悲しかったと思います。
しかし、裏切ってしまった二人への父なる神の神性の現れは憐れみ深い愛であることに気付きます。
愛のほかに神性には義と聖があります。
何となく誤魔化すようなあやふやさはなくて、
罪は罪として処断される厳しさも現されています。
この『塵にすぎないお前は塵に返る』しかなくなってしまった現実を父なる神ご自身が悲しまれているように思えます。
子供を憐れむ父の悲しみを感じます。
父なる神はご自身をささげて裏切ってしまった子供(人間)を救いました。
これがご自分と等しい御子イエス・キリストを十字架に架けてしまうことでした。
御子イエス・キリストは人間が受けるはずの罰を身代わりになって負うために十字架で苦しまれ死にました。
そして、復活されました。
塵に返るしかない人間をイエス・キリストの復活により、塵に返るだけでなく新たによみがえり、永遠の命に生きるようにしてくださいました。
塵と永遠の命を生きる者との違いをもう少し考えてみたいと思います。

 詩編30編の御言葉に以下のように書いてあります。
「わたしが死んで墓に下ることに
何の益があるでしょう。
塵があなたに感謝をささげ
あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。」
詩編30:10
塵であるならば、主を礼拝することが叶いません。
しかし、永遠の命に生きるならば、
「わたしの魂があなたをほめ歌い
沈黙することがないようにしてくださいました。
わたしの神、主よ
とこしえにあなたに感謝をささげます。」
詩編30:13
とこしえに主なる神を礼拝することになります。
永遠の命に生きて何をするのだろうかと思っていたことがあるのですが、
この箇所を読んでから、永遠に主なる神を礼拝し続けることではないかと思うようになりました。
以下は旧約聖書イザヤ書の御言葉ですが、やがて来てくださるイエス・キリストを指し示しているようです。


「2乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。
見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
3彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
4彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
5彼が差し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
6わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。」
イザヤ書53:2~6


「12多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。」
イザヤ書53:12より


「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」
ヨハネの手紙一4:19


イエス・キリストの贖いを通して父なる神様の愛を覚え、真の礼拝者となれるように祈り求めていきたいと思いました。