yupaloma03’s blog

聖書からの黙想などを書いていきたいと思います。

邪悪な日に戦う相手と戦い方

「1人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。
2従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は、自分の身に裁きを招くでしょう」

ローマの信徒への手紙13:1~2

「9主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人がおられ、人を分け隔てなさらないのです。」

エフェソの信徒への手紙6:9

この世での身分を受け入れ、身分の低さを気にしないようになろうと思います。本当の主人は天にいらっしゃる神様です。
聖なる、義なる、愛なる神様です。だから私達は奴隷ではありません。
神様と関係の全く無い、罪の奴隷にならないようにしましょう。

権威者は時に残酷な仕打ちをしますが、悪魔の策略にはまらないように闘いましょう。人間であれば、間違いを犯しますが、権威者からの不条理な仕打ちは辛いものです。けれども、権威者にいたずらに逆らうことは罪の奴隷に自らの身分を貶める行為だと気付きます。

賢く歩むとはどういうことでしょうか。蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさいと聖書は教えています。(マタイによる福音書10:16)

 

「10最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
11悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
12わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
13だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」
エフェソの信徒への手紙6:10~13


明らかに腹を立てるべき相手はその目に見えている相手ではありません。
目に見えている相手を敵とすることはエネルギーの無駄遣いになってしまいます。ただでさえ疲れ果てて、傷ついていたら、何が何だか分からなくなります。しかし、生きるためには戦わなくてはならないのです。

 

「14立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、
15平和の福音を告げる準備を履き物としなさい。
16なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
17また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
18どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」
エフェソの信徒への手紙6:14~18

 

ここまで御言葉を読むと、怒りや苦しみを一時のものとして切り離すことができるのではないかと思います。

そして、立ち上がる力が与えられます。

御言葉は霊の剣なのです。

助け主である聖霊をいただきつつ、御言葉により、戦う相手と戦い方を覚えていきたいと思います。

死の間際、死の先

「40すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』
42そして、『イェスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。
43するとイェスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」

ルカによる福音書23:40~43

イエス・キリストのようなヒーローの側ではなく、殺そうとしている人間たちの側に立つだけで良いかと考え直してみると、それだけでは足りないと思いました。
私が何か大きな苦痛を堪える時、イェス様を深く知らない時は死にそうだったけれども、今は磔にされているイエス・キリストが共に居てくださるから我慢が楽になったと思うことが増えたことを思い出しました。

私は肉体の苦痛でそう思っただけでしたが、精神的な苦痛を堪える時にも適用して行かなければ、と思いました。

耐え難い屈辱、悲しみ、怒り。

死は誰の上にも訪れますが、滅びに至る死の使者は、サタン性を帯びて他者を道連れにしようとします。

磔にされたイエス・キリストの両脇に犯罪を犯した二人がいました。

死の間際にある人間の二つの相反する心を表していると思いました。

1人はイエス・キリストを罵りました。
こちらがサタン性を帯びた死の間際の心に感じました。

私たちは死に際して、死の間際迄、必死でイエス・キリストに心を向け続けなければならないと思います。

死の苦しみは孤独で恐ろしいものだし、死ぬならば地獄へ道連れにというサタン性を帯びた心が迫って来るかもしれないと思います。

「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

これは犯罪を犯した特別な人間の発言ととらえるべきではないと気が付きました。

人間は全て罪人であり、本来は死の先にある滅びまでが確定されていたのですから。

死の先にある滅びしか見ようとしないならば、もう何をやろうが同じだとサタン性に支配されてしまいます。

死の間際に、「イェスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったことは、死の先にイエス・キリストという方に思い出していただけるという希望を持つことです。

これが神の国である御国(楽園)そのものだと感じます。

刻が遅れるという意味が変わる

礼拝メッセージで「待つこと」は自分の時間を相手にささげる愛の行為だと聞いて参りました。
一方他の場所では、「遅刻は時間泥棒だ」と聞いたことがあります。
相手の時間を奪ってしまう行為だと戒めて、遅刻はしまいと思っていました。
聖書には「待ち望む」という言葉がたくさん出て来ます。


「主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む」創世記49:18
「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
なぜ呻くのか。神を待ち望め」詩編42:6
「主を待ち望め
雄々しくあれ、心を強くせよ。
主を待ち望め。」詩編27:14
「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」フィリピの信徒への手紙3:20


これらは私たち信仰者が神様の救いを、キリストの再臨を待ち望むという意味です。
信仰者は目に見えない神様からの救いの実現を常に待ち望むこととなっています。


「8愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。
9ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」
ペトロの手紙二3:8~9


遅刻が破壊的な迷惑行為に至るには、待っている側が苦痛を感じて相手を嫌悪する必要があります。
苛々して来て、時間になっても現れなかった相手を信頼出来なくなり、裏切られた気持ちにまでなってしまうのでしょう。時間は誰の人生にとっても貴重なものです。
それにしても、友人を泥棒呼ばわりすることは悲しいことです。
本当は相手側に何か理由があるからだと相手を責めない必要があると思います。
相手には理由がある、そう考えると遅刻は破壊的迷惑行為ではなくなります。


神様の救いの実現を遅いと感じて、神様への信頼が揺らぐことを警戒するように聖書は呼び掛けています。
神様ご自身には、私たち人間の想像を超えた理由があるからです。
私たち信仰者は待ち合わせ場所で、神様からもたらされる救いの実現を待っていると言えます。そして神様とともに出掛けるとしたら共に神様の御国へ行くのです。
神様のお時間は、私たち人間の持つ時間と全く異なることをわきまえた上での待ち合わせと言えるでしょう。
私たち信仰者は腕時計を持っていても、全く違う針を指している神様の時計に合わせて待つしかありません。
そして、神様の時計を見ないでお待ちするしかないのです。
神様へ愛と信頼を堅くするなら、待つことが出来ます。


信頼して待つということが成立した時に、破壊的迷惑行為としての遅刻は成立しなくなります。
刻が遅れることは、「待つ」側の心で意味が変わるのだと思います。
「待たされている」と思う前に、主なる神様ご自身が私たちを待ち続けておられたこと、待ち続けておられることに心を留めるべきなのです。


こう考えていったら、気が付いたことがあります。
待ち合わせ場所が普通の場所で、待つ相手は友人か同僚か、そんなシュチュエーションで相手を時間泥棒呼ばわりする前に、少し考えたいと思います。
必死に反省して遅刻しない自分になれたら、今度は相手を泥棒呼ばわりしてしまいそうだからです。
それは、「遅刻が時間泥棒だ」という言葉自体に普遍性が欠けるからだと感じました。(正しく言葉を定める方はキリストであると考えています。)

待ち合わせ場所が学校で、いじめっ子がいじめるために待ち受けているケースもあります。実は人生には美しくない待ち合わせがたくさん潜んでいるということに気付きます。


イエス・キリストが「成し遂げられた」と言い、息を引き取られた場所はゴルゴダの十字架でした。ヨハネによる福音書19:30より)
イエス・キリストはこの待ち合わせ場所を、父なる神様に従い、ご自分で選ばれました。誰が待ち合わせ場所で待っていたかと言うと、ご自分を殺そうという敵意に満ちた人間たちだったのです。

イエス・キリストは神様の独り子でありながら、待ち合わせの後で得たものは死の御苦しみでした。イエス・キリストが私たち全人類の待つべき最悪の待ち合わせをその身に背負ってくださったのです。何という重さでしょう。それがキリスト(メシア)なのです。

殺した彼らが罪の全く無いイエス・キリストに泥棒以上の濡れ衣を着せたことは言うまでもありません。十字架刑はイエス・キリストを「見せしめ」にしようと為されたことなのですが、私はイエス・キリストを取り囲んで殺す人間側が「見せしめ」にされていると思います。

彼らは私であると考えるならば、きっと私は油断すれば隣人を責める者となります。それはイエス・キリストを、神様を、責める者になることでもあるのです。


たった一度、最も残酷な待ち合わせ場所と待っていた人間たちのために、イエス・キリストがご自身を犠牲としてささげ、成し遂げてくださったのですから、少なくとも遅刻したからといって泥棒にされる人はもういなくなりました。そして、人の罪や過ちについて、もっと深く創造的に考えていく必要が生じているように思うのです。

神様の持っておられるお時間には「永遠」があります。人間はこの「永遠」を表す時計を持ち得ないのですが、自身をイエス・キリストのようなヒーローの側ではなく、イエス・キリストを殺す側に見立てた時に奇跡が始まります。

良からぬ思いで相手を待つ瞬間がある自分に気が付くこと、待っている間にふと相手にやってしまった或る出来事が頭に過ること、傍らに自分に道を訊こうという小さい存在があるということ、本当に刻一刻と世界が変わっていくことに気が付けるように思うのです。

私たちは、もっと良い待ち合わせというものを待つ者同士になっていくように招かれています。


好ましくない言葉と思いを心の中から根こそぎ抜き去りつつ、日々新たにされていきたいと思いました。

私たちが神様を愛する前から、こんなにも神様の愛が私たちに注がれていたのだと気が付くように生きていきたいと思います。

安息の土台

「『24そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。25雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。

26わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。27雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。』」

マタイによる福音書7:24~26

「10わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。11イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」

コリントの信徒への手紙一3:10~11

「16あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。17神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」

コリントの信徒への手紙一3:16~17

この聖書でいう家とはキリストの祈りの家の教会を指すのだそうです。また、信仰者ひとりひとりの体でもあるそうです。体には神の霊が住んでくださるというのです。自分の価値は神が定めてくださいます。人から定められるようにするのはやめたいと思います。人は限りがあります。突然、生きられなくなるような場面で欺かれるかもしれません。たくさんの友人に触れられる時が安泰だと感じてしまうと、そうでなくなった時に空虚感に襲われるかもしれません。また、何より自分自身が揺らいでしまうことがあります。神の霊である聖霊を人間がプレゼントできるでしょうか。神様にしかプレゼントできないのが聖霊です。こうして何かを書く時、どんな時も聖霊をくださいと主に祈って安息するようにしたいと思います。神の霊が自分に宿ってくださる感謝で満たして行けばよいのだと思います。安息のイメージを、聖霊により、平和の主イエス・キリストからいただこうと思います。それこそ父なる神の与える安息だと思います。悪い時にイエス・キリストという神の土台を土台としているか確認していきましょう。自分自身を含め、人間による土台を拒否していきましょう。自分の所有の在りかを確認しましょう。破壊するということを知ることで建てることを知ることもできるかもしれません。神の摂理ではイエス・キリスト以外の土台は据えられないように定められていたのです。希望を捨てずにイエス・キリストにより自分を買い取ってくださった神様に感謝して、神様のものとされている自覚を持ちたいと思います。そこを土台として初めて兄弟姉妹への感謝や愛が揺らがなくなれるのだと思います。

「19知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」

コリントの信徒への手紙一6:19~20

感謝します。

フィレオからアガペーへと向かう道筋

最近礼拝メッセージから感じたことを記してみたいと思います。

「15食事が終わると、イェスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です』と言うと、イェスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた。16二度目にイェスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です』と言うと、イェスは、『わたしの羊の世話をしなさい』と言われた。17三度目にイェスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』ペトロは、イェスが三度目も『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。『主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。』イェスは言われた。『わたしの羊を飼いなさい。』」

ヨハネによる福音書21:15~17

聖書には「愛する」という言葉がたくさん出て来ます。この「愛」にはいくつかの種類があり、よく耳にするのはエロス(性愛)かもしれません。他に聖書ならではの愛である「アガペー」が有名かと思います。神様の愛である神愛をアガペーと呼びます。また、友情などの愛は友愛でありフィレオと呼ぶのだそうです。イエス・キリストはペトロに三度私を愛するかと尋ねました。二回は私をアガペーするかと尋ねたのだそうです。これに対してペトロは二回とも私はフィレオしますと答えました。アガペーしますとは答えなかったのだそうです。ペトロはイエス・キリストが前もって仰られた通り、三度イエス・キリストを知らないと否定してしまった直後のことだったのです。自信満々で私はあなたをアガペーしますと答えることが出来なくなっていたと思われます。イエス・キリストは三度目にはペテロに私をフィレオするかと尋ねたのだそうです。もはや、私をアガペーするかと問われなくなったのです。

「愛には偽りがあってはなりません。」ローマの信徒への手紙12:9より

この時のペトロは自らの命を捨てて主イェスを愛せなかったのですから三回ともアガペーを口に出来ないのです。これがペトロの真実の姿でした。ペトロはイエス・キリストに嘘をついていません。だからペトロはイエス・キリストに友愛はささげているのです。もちろんイェス様がご自分へはアガペーを求めておられることを知っていますから非常に苦しんでいるのです。イエス・キリストはそんなペトロを不完全なまま受け入れてくださいました。謎に包まれた場面ですが、とてもあたたかいものを感じます。イエス・キリストは私たちの想像を超えた、目に見えない愛を持っておられるように感じます。この場面でペトロへ向けているイエス・キリストの持たれる愛が、アガペーというものなのではないでしょうか。

ここでイエス・キリストが仰られている意味は、私があなたを助けるから今は友愛でいいからささげなさい。立ち直ったら、兄弟を同様に助け励まし、アガペーの愛を求め、またアガペーの愛を伝えなさい。という意味だったのではないかと思います。

ルカによる福音書22:31~32には、このように書いてあります。

31「『シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。32しかし、わたしはあなたがたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。』」

これはペトロの離反を予告するなかでイエス・キリストが仰られた言葉です。こうしてイエス・キリストはお弟子さんたちのために執り成しておられるのだということに気が付きます。私たちが躓くことは避けられないと書いてあるのですが、その通りだと思います。逆境の時に背信の危険に陥ることもあるでしょう。しかし、神様はイエス・キリストという罪を取り除く子羊をメシアとして地上に送ってくださいました。イエス・キリストというお方は不完全な私たちに対する最大の執り成し手であられることに改めて気が付きます。最近は毎日のように、『イェス様、私たちの信仰がなくならないようにお祈りしていらしてください』と祈っています。そして、気付いたのはどんな時でも日常的にフィレオをどんな人にもささげる訓練は大事だという事です。フィレオは気に入った友にささげる愛かもしれません。そこが本質的にアガペーとは異にするところだと思います。そして、あらゆる友のために命を捨てたお方がイエス・キリストであり、フィレオが基礎となる場所にアガペーがあると感じるからです。サタンに隙を与えないためにも目に見える兄弟にフィレオをささげ、イエス・キリストの御姿へ、無償の愛、神の愛であるアガペーへと向かう道を歩みたいものです。

立ち帰って、生きよ

「『21悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。
22彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。
23わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。
24しかし、正しい人でも、その正しさから離れて不正を行い、悪人がするようなすべての忌まわしい事を行うなら、彼は生きることができようか。彼の行ったすべての正義は思い起こされることなく、彼の背信の行為と犯した過ちのゆえに彼は死ぬ。』」
エゼキエル書18:21~24(旧約聖書のことば)


「31『お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。
32わたしはだれの死も喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」
エゼキエル書18:31~32(旧約聖書のことば)


エレミヤ書エゼキエル書ではエルサレムの陥落と荒廃にまつわる言葉が綴られ、読んでいて怖くなることが多くあります。
自分の罪や過ちというものを思い起こして重ねてみたりしますが、なかなか主が何を仰られているかを悟ることが難しいのです。
しかし、徐々に、旧約聖書のことばそのものの中にイエス・キリストが仲介者として存在されていることは分かって来ました。

『お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。』
この新しい心と新しい霊がイエス・キリストにより、完成された新しさなのだと思います。


「2あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
3わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。
4というのはわたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、
5わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」
ローマの信徒への手紙12:2~5(新訳聖書のことば)

 

クリスチャンになってからは罪や過ちを犯さなくなるかというと、私はそうではないです。
キリストにより罪が何であるかを悟るようになるために、罪が分かるから罪を犯さなくなるという理論があるのかもしれません。
けれども、人に言われぬ理由があるとはいえ、私自身は他の方々が神様に熱心に仕える姿勢に追い付いて行けずに、不信仰と言われても仕方ない遅々滞滞の日々を送っていたと思います。
教会について行かれないという淋しさも感じています。
そこからいい加減になって堕落しそうになっていることを認めて、まず主に対して繰り返し悔い改めをして行きたいと思います。
まず、一方的な主の憐れみを感じることが始まりのようです。
私が不信仰な状態にある時でさえ、主は私がどうであるかより、主が私をご自分が選ばれたイスラエルの民に加え、イエス・キリストにより、ご自分の霊的な民としてくださったことと、私が神様が主であることを知ることになると言われるのだと思います。
そして、生きよ、と言われるのだと思います。
立ち帰って、生きよと言われるのだと思います。
帰る場所があり待っていてくださる方がいらっしゃるとは素晴らしいことだと思います。
永遠なる神様は毎日生きていらしてご自身の慈しみと厳しさを考えるように教えてくださると思います。 

また、主イエス・キリストが死んだと思われた会堂長の娘を生き返らせた場面で主イエス・キリストがこう言っておられる記述があります。


「54イェスは娘の手を取り、『娘よ、起きなさい』と呼びかけられた。
55すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。」
ルカによる福音書8:54~55(新訳聖書のことば)


生き返らせた主は『起きなさい』と仰られています。
霊が正しく戻ったという完全な主イエス・キリストによる癒しの結果、どうなるのでしょうか。
主の起きなさいという呼びかけに応えてすぐに起き上がる必要があることが分かって来ます。
起き上がるということは単なる動作ではなく、主に立ち帰って生きることを表していると感じました。しかも、主が呼びかけておられならばすぐにそうする必要があると気が付きます。12歳の娘が悔い改めるべき罪びとであったとは考えにくいです。ですから人間側から安易に過ちがある、無しを考えると上手くいかないのではないかと思います。原罪からいえば私たちは皆同じに悔い改め続け立ち帰り続けるように主が定めておられると感じます。

イエス様は私達の心に何かを書いておられる

「3そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4イェスに言った。 『先生、この女は姦通をしているとき捕まりました。 5こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。 ところで、あなたはどうお考えになりますか。』 6イェスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。 イェスはかがみ込み、指で地面に何かを書き始められた。 7しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イェスは身を起こして言われた。 『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』 8そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イェスひとりと、真ん中にいた女が残った。 10イェスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』 11女が、『主よ、だれも』と言うと、イェスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』。」
ヨハネによる福音書8:3~11

イエス・キリストは屈んで地面に何かを書いていました。 一体イエス・キリストは何を書いていたのでしょう。

この辺りの記述について、以前牧師先生がご自分の想像するところを述べていらっしゃいました。

御言葉をあまり勝手に解釈してはいけないと思いますが、牧師先生も想像されるなら大丈夫かもしれないと思いました。

それで私も想像してみようと思います。

まず、女に対してご自分がどうされるおつもりかを示されていると感じます。

以前から存在する律法によれば死罪となる姦通罪です。

その姦通の罪が目の前にありますが、そこに居合わせていながら、罪への裁きに対しては完全に関係を異にされているように感じます。

そしてもうひとつ、一人、また一人と去って行く人達の心の中に律法が書かれて行く気がします。

律法は人の心に罪を刻み付ける働きがあると思います。

全ての人間には自らの罪状書きがありますから、女を使ってイエス・キリストを陥れようと憎悪する人達は皆自らの罪状書きがあることに気が付いたのだと思います。

この中で唯一イエス・キリストだけには書くべき自らについての罪状書きがありません。

イエス・キリストは女にも憎悪する人達にも上からではなく、身を屈めて低い場所から何かをされていたのです。

女からも憎悪する人達からも決して離れず寄り添われていました。

身を屈めて小さな子供のように、父なる神に示された通りに真っ直ぐに従順に書いておられたのだと思います。

「33しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。 すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。 わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 34そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。 彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。 わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない。」
エレミア書31:33~34

人を憎むことと殺すことに平安はないです。

イエス・キリストを憎み、何とかして陥れようとする彼らも、女同様に罪の奴隷としての哀れな存在として浮かび上がる気がします。

「9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イェスひとりと、真ん中にいた女が残った。 10イェスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』
11女が、『主よ、だれも』と言うと、イェスは言われた。
『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』。」

全ての空気が全く新しいものに変えられたこの場面が、エレミア書の預言の御言葉を想起させます。
また、ヘブライ人への手紙8:8~12にこのエレミア書の預言の言葉が再び書かれています。
そこからもイエス・キリストがどういうお方かをさらに深く読み取ることが出来ると思います。

確かにイエス・キリストは女と立ち去って行った敵を罪の赦しにより癒し、清められたと思います。

イエス・キリストは低い場所で寄り添いながら、私たちの心に律法を新しい契約として完成されたかたちで記し続けておられるのだと思いました。