yupaloma03’s blog

聖書からの黙想などを書いていきたいと思います。

原罪を贖うイエス様・永遠の命

 

(以前書いたものに書き足してみたいと思います。)

「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。
ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」
創世記2:16~17
「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」
創世記2:25
しかし、蛇に唆された女は実を取って食べ、男に渡し、男も実を食べてしまいました。
「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」
創世記3:7
このように、いちじくの葉で腰を覆う二人は神を恐れて、隠れるのです。
完全な愛は恐れを締め出します。(ヨハネの手紙一4:18より)
概して言うなれば、無邪気な乳飲み子は自分の非が分からないために全く父を信頼し、自分が愛されていることを疑い得ません。
彼らが善悪を見分けられるようになるとは、父なる神の厭うことが何であるかを知り、且つ行わずにいられなくなることでした。
そして、父なる神からの罰を恐れているのです。
父なる神と完全な愛で結ばれていた関係が壊れてしまいました。
神は言われます。
「『塵にすぎないお前は塵に返る。』」
創世記3:19より
しかし、この後のことです。いちじくの葉で覆うような哀れな二人に神は皮の衣を作って着せたのです。
「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」
創世記3:21
裏切ってしまった二人は悲しく、父なる神も悲しかったと思います。
しかし、裏切ってしまった二人への父なる神の神性の現れは憐れみ深い愛であることに気付きます。
愛のほかに神性には義と聖があります。
何となく誤魔化すようなあやふやさはなくて、
罪は罪として処断される厳しさも現されています。
この『塵にすぎないお前は塵に返る』しかなくなってしまった現実を父なる神ご自身が悲しまれているように思えます。
子供を憐れむ父の悲しみを感じます。
父なる神はご自身をささげて裏切ってしまった子供(人間)を救いました。
これがご自分と等しい御子イエス・キリストを十字架に架けてしまうことでした。
御子イエス・キリストは人間が受けるはずの罰を身代わりになって負うために十字架で苦しまれ死にました。
そして、復活されました。
塵に返るしかない人間をイエス・キリストの復活により、塵に返るだけでなく新たによみがえり、永遠の命に生きるようにしてくださいました。
塵と永遠の命を生きる者との違いをもう少し考えてみたいと思います。

 詩編30編の御言葉に以下のように書いてあります。
「わたしが死んで墓に下ることに
何の益があるでしょう。
塵があなたに感謝をささげ
あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。」
詩編30:10
塵であるならば、主を礼拝することが叶いません。
しかし、永遠の命に生きるならば、
「わたしの魂があなたをほめ歌い
沈黙することがないようにしてくださいました。
わたしの神、主よ
とこしえにあなたに感謝をささげます。」
詩編30:13
とこしえに主なる神を礼拝することになります。
永遠の命に生きて何をするのだろうかと思っていたことがあるのですが、
この箇所を読んでから、永遠に主なる神を礼拝し続けることではないかと思うようになりました。
以下は旧約聖書イザヤ書の御言葉ですが、やがて来てくださるイエス・キリストを指し示しているようです。


「2乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。
見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
3彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
4彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
5彼が差し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
6わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。」
イザヤ書53:2~6


「12多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。」
イザヤ書53:12より


「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」
ヨハネの手紙一4:19


イエス・キリストの贖いを通して父なる神様の愛を覚え、真の礼拝者となれるように祈り求めていきたいと思いました。

父なる神と人間の関係・神は愛なり

「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。
ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」
創世記2:16~17(旧約聖書のことば)

「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」
創世記2:25 旧約聖書のことば)

しかし、蛇に唆された女は実を取って食べ、男に渡し、男も実を食べてしまいました。 

「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」
創世記3:7 旧約聖書のことば)

このように、いちじくの葉で腰を覆う二人は神を恐れて、隠れるのです。

完全な愛は恐れを締め出します。(ヨハネの手紙一4:18より)

無邪気な乳飲み子は自分の非が分からないため、全く父を信頼し、自分が愛されていることを疑いません。

彼らが善悪を見分けられるようになるとは、このように父なる神の厭うことが何であるかを知り、且つ行わずにいられなくなることでした。

そして、父なる神からの罰を恐れているのです。

父なる神と完全な愛で結ばれていた関係が壊れてしまいました。
神は言われます。
「『塵にすぎないお前は塵に返る。』」
創世記3:19より(旧約聖書のことば)
しかし、この後のことです。いちじくの葉で覆うような哀れな二人に神は皮の衣を作って着せたのです。
「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」
創世記3:21旧約聖書のことば)
裏切ってしまった二人は悲しく、父なる神も悲しかったと思います。しかし、裏切ってしまった二人への父なる神の神性の現れは憐れみ深い愛であることに気付きます。

愛のほかに神性には義と聖があります。

何となく誤魔化すようなあやふやさはなくて、 罪は罪として処断される厳しさも現されています。

この『塵にすぎないお前は塵に返る』しかなくなってしまった現実を父なる神ご自身が悲しまれているように思えます。

子供を憐れむ父の悲しみを感じます。

父なる神はご自身をささげて裏切ってしまった子供(人間)を救いました。

これがご自分と等しい御子イエス・キリストを十字架に架けてしまうことでした。

御子イエス・キリストは人間が受けるはずの罰を身代わりになって負うために十字架で苦しまれ死にました。そして、復活されました。

塵に返るしかない人間をイエス・キリストの復活により、塵に返るだけでなく新たによみがえり、永遠の命に生きるようにしてくださいました。

 

「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」

ヨハネの手紙一4:19(新約聖書のことば)

主イエス様は何処に・変容

「1六日の後、イェスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
2イェスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。
3見ると、モーセエリヤが現れ、イェスと語り合っていた。
4ペトロが口をはさんでイェスに言った。
『主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。
お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。
一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』
5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。
すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた。
6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
7イェスは近づき、彼らに手を触れて言われた。
『起きなさい。恐れることはない。』
8彼らが顔を上げて見ると、イェスのほかにはだれもいなかった。

マタイによる福音書17:1~8

イエス・キリストの変容の箇所です。
ペトロは自分でも何を言っているか分からなかったのだそうです。
弟子たちは非常に恐れてひれ伏していました。
モーセとエリヤは消えましたが、イエス・キリストだけが弟子たちと共におられました。
『イェスのほかにはだれもいなかった。』
モーセとエリヤに対し、イエス・キリストという方が全く異なる存在であることが分かります。
わたしたちが聞き従うべき神の御子です。
人間の姿をしておられますが、神です。
この後、十字架に架けられて死なれ、よみに下り、三日目に復活させられますか、イエス・キリストは弟子たちの前で昇天されます。
それではイエス・キリストはもう見ることが出来ないし、共におられると感じられないのではと思えますが、どうでしょうか。

『わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。』」
ルカによる福音書24:49

約束されたものとは聖霊のことです。この聖霊により、イエス・キリストは弟子たちと私たちにそのご臨在を現されています。

私は聖霊を求めます。イエス・キリストのご臨在を悟らなければ不安で仕方がない時があるのです。主は約束してくださったとおりに聖霊を与えてくださるのです。

 

主イエス様は何処に・インマヌエル預言から

 

「22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。』
この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」
マタイによる福音書1:22~23(新約聖書のことば)

「10主は更にアハズに向かって言われた。
11『主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。』
12しかし、アハズは言った。
『わたしは求めない。
主を試すようなことはしない。』
13イザヤは言った。
ダビデの家よ聞け。
あなたたちは人間に
もどかしい思いをさせるだけでは足りず
わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
14『それゆえ、わたしの主が御自ら
あなたたちにしるしを与えられる。
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ。』」
イザヤ書7:10~14(旧約聖書のことば)

「31『そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。

32神はこのイェスを復活させられたのです。」
使徒言行録2:31~32より(新約聖書のことば)

イエス・キリストは十字架に架かり、御苦しみを受けられ死んだ後、陰府に下られました。
その上で三日目に復活されました。
陰府とは死後に行く場所ですが、その意味は絶望の淵であり何も無い虚無の世界であると聞きます。
私が絶望の縁に陥った時に、何も無い、誰も居ないという世界があるはずでしたが、イエス・キリストがこの陰府にいらっしゃるというのです。イエス・キリストが共におられるのなら陰府は最早陰府ではなくなります。
インマヌエルの主なる神はイエス・キリストであり、我々と共におられる神です。
私がどこに行っても共におられる、死の世界に行っても陰府に行ってもイエス・キリストはとことん寄り添い、共に居てくださるのだと思います。死の世界も最早死の世界であり得なくなります。
なぜイエス・キリストという王様は、どこまでも低さを極められるのか不思議です。
神様の愛と恵みというものが、限界ばかりが付きまとう人間の思いを遥かに超えた偉大なものであることが迫って来ます。
イザヤ書にある通り、主はアハズに向かって神に対してしるしを求めるように言われました。
しるしを高い天の方にだけ求めるのではなく、深い陰府の方にも求めなさいということでした。
しかし、人間がしるしを求めることは神を試すことでもあります。
律法では神様を試すことが禁じられています。アハズは主の求めを拒んでしまいました。

それゆえ主なる神様自らがわたしたちにしるしを与えられることになるのだとイザヤは預言しました。
そのしるしはインマヌエルの神である御子イエス・キリストのご降誕から始まります。そして十字架でのご受難と死、陰府に下り復活なさったこと、天に昇られ父なる神の右の座に坐すことに至ります。
こうして、『神は我々と共におられる』という意味のなかに、
陰府に求めてもイエス・キリストは共に居てくださるし、天に求めてもイエス・キリストは共に居てくださるのだという意味があることが明らかとなります。

このインマヌエル預言を通して、イエス・キリストが「共におられる神」であるがゆえに人間が死んで陰府へ下ることの意味が全く変えられたことを知ります。さらにキリストが復活されたのだという事実は、信じる者を共におられるキリストが自らと同じように復活の命へ引き上げるのだということを明らかにします。復活とは天の御国へ帰り永遠の命に至ることであり、イエス・キリストが共におられる世界ですべてが完成されるのだと思いました。

総督ピラトの問い掛け

 

「そこでピラトが、『それではやはり王なのか』と言うと、イエスはお答えになった。『わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆わたしの声を聞く。』

ピラトは言った。『真理とは何か。』」

ヨハネによる福音書18:37~38

イエス様にピラトが『真理とは何か。』と尋ねますがこの後イエス様の答えは書かれておらず、いったん場面が途切れます。

ピラトはイエス様に何の罪も見いだせませんでした。しかし、ユダヤ人たちはイエス様を十字架につけろと叫びます。

ユダヤ人たちは答えた。『わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。』

ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、『お前はどこから来たのか』とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。

そこで、ピラトは言った。『わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。』

イエスは答えられた。『神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。』そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、たちは叫んだ。『もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。』」

ヨハネによる福音書19:7~12

結局ピラトはこのように訴えるユダヤ人たちに押されるようにしてイエス様を十字架につけるために彼らに引き渡してしまいます。

ピラトの『真理とは何か』という問い掛けに対するイエス様のお言葉は以下

のような意味ではないかと考えます。

「わたしを十字架につける権限を持っているのはピラト、あなたではない。

神から与えられたわたしを十字架につける権限はわたしが神から与えられている。

『わたしは神の独り子メシアである』これがあなたが問うている真理である」

 イエス様は自ら十字架に向かいます。十字架から降りることもしませんでした。

これがメシア=キリストという王の唯一の統治です。

貧しい馬小屋で生まれたのはこの真理を実際に現すためだったのです。

わたしたちがイエス様を神の独り子メシアとして信じるならばイエス様の御声が聞こえる、そして聞き従うと書かれているのだと思います。

そのことを信じて耳を澄まして行きたいです。

エルサレム入城、ホサナ。

「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。
『ホサナ。
主の名によって来られる方に、祝福があるように、
イスラエルの王に。』
イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。
次のように書いてあるとおりである。
『シオンの娘よ、恐れるな。
見よ、お前の王がおいでになる。
ろばの子に乗って。』

ヨハネによる福音書12:12~15

イエス様が重い皮膚病で一度死んだラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたことを聞きつけた群衆がイエス様をこのように出迎えました。一方、祭司長たちは、多くのユダヤ人がラザロのことで自分たちを離れて行き、イエスを信じるようになったため、ラザロとイエスを殺そうと謀ります。イエス様はご自分が間もなく十字架に架けられることをご存知の上エルサレムに入城されるのです。

前日には、兄弟であるラザロを生き返らせてくださった主イエス様に、マリアが純粋で高価なナルドの香油を一リトラ、イエス様の足に塗り、自分の髪でぬぐうという出来事がありましたが、これはイエス様ご自身の葬りのための香油注ぎだったのです。

『シオンの娘よ、恐れるな。
見よ、お前の王がおいでになる、
ろばの子に乗って。』

新約聖書のこの御言葉は以下の旧約聖書からの引用と思われます。

「娘シオンよ、叫べ。
イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。
エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。
主はお前に対する裁きを退け
お前の敵を追い払われた。
イスラエルの王なる主はお前の中におられる。
お前はもはや、災いを恐れることはない
その日、人々はエルサレムに向かって言う。
『シオンよ恐れるな
力なく手を垂れるな。』」

ゼファニヤ書3:14~16

「娘シオンよ、大いに踊れ。
エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。」

ゼカリア書9:9

メシア預言にこのように記されたとおりにイエス様という王は馬ではなく、ろばに、そして更に力乏しい子ろばに乗っていらしたのです。

神と等しい方が、何の罪もない方が、罪ある私たちの身代わりとなられ、十字架の御苦しみに向かって歩んでおられます。

前の記事に記しました乙女マリアやカナンの女のようにへりくだる謙虚さは、イエス様の中に最も充ちていたことに気付きます。

このイエス様のお姿に武力と関わりのない王、真の救世主を見い出すことが叶います。

それは私に本来あったはずの神の裁きを退けてくださったイエス様なのです。

感謝します。ホサナ。

カナンの女と私たち

 

「イエスは、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった。

しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った。

イエスが、『子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』とお答えになると、

女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。』

そこで、イエスはお答えになった。

『夫人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』

そのとき、娘の病気はいやされた。」

マタイによる福音書15:24-28 

カナンの女は主なる神様の選ばれた民であるイスラエルの民ではありませんでした。

たとえパン屑であっても、主が与えてくださるものであれば十二分の恵みであり、

欠けたるところはありません、完全ですと彼女は答えたのです。

主イエスはこのカナンの女の信仰を褒めます。

私たち日本人も選ばれたイスラエルの民ではなく、カナンの女と同じく異邦の民です。

しかし、主なる神様は私たち異邦の民に対しても、

御子イエスの贖いを信じることによって救われるという約束を与えてくださいました。

信じるようにされてからもしばしば心細く、

私のような者をも救っていただけるだろうかと不安に陥ることがあります。

答えはやはり、このカナンの女のように主の恵みと愛にひたすら信頼し、

縋ることだと思います。

主の恵みというものは欠けたところがなく人知を遥かに超えて完全なものです。

その恵みの大きさを未だ見ぬうちに、どこまでも信頼し切る信仰が必要なのだと思います。

また、カナンの女の、私は本来ならば救いに値しない者ですという謙虚さは

恵みを真っ直ぐに受け入れる者に主が求めておられる姿勢であるように感じます。

自らを低くすることにより主なる神様への固い信頼と賛美を表していると言えるでしょう。

『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように』

ルカによる福音書1:38より 

乙女マリアはこのように謙虚さを持って、死の危険が伴う恵みを真っ直ぐに受け入れました。

カナンの女も乙女マリアも、通常は信じ難いことをこのように信じ切り、神様の祝福を受けました。

二人には『謙虚さ』というものが共通してありました。 

そして、注目したいことは、二人がそれぞれ自らを『主人の小犬』、『主のはしため』と言っていることです。

『わたしは主のものなのです』という信仰告白がはっきりと表されているのです。

どこまでも固く信じることは心細い者、弱い者にとって難しいことに思えますが、

私たちがなそうとすることが御心に適うことであれば主は助けてくださいます。

私たちがなすべきことは信じ切ることであると、

カナンの女の信仰を褒めた主が教えてくださいました。

いかなる者であっても私たちは主のものなのです。

『異邦の者をもご自分のものとして豊かに憐れまれる』主なる神様の愛を、

寂しさや心細さのさなかで思い起こして行きたいと思います。