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聖書からの黙想などを書いていきたいと思います。

主イエス様は何処に・インマヌエル預言から

 

「22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。』
この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」
マタイによる福音書1:22~23(新約聖書のことば)

「10主は更にアハズに向かって言われた。
11『主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。』
12しかし、アハズは言った。
『わたしは求めない。
主を試すようなことはしない。』
13イザヤは言った。
ダビデの家よ聞け。
あなたたちは人間に
もどかしい思いをさせるだけでは足りず
わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
14『それゆえ、わたしの主が御自ら
あなたたちにしるしを与えられる。
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ。』」
イザヤ書7:10~14(旧約聖書のことば)

「31『そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。

32神はこのイエ スを復活させられたのです。」
使徒言行録2:31~32より(新約聖書のことば)

イエス・キリストは十字架に架かり、御苦しみを受けられ死んだ後、陰府に下られました。
その上で三日目に復活されました。
陰府とは死後に行く場所ですが、その意味は絶望の淵であり何も無い虚無の世界であると聞きます。
私が絶望の縁に陥った時に、何も無い、誰も居ないという世界があるはずでしたが、イエス・キリストがこの陰府にいらっしゃるというのです。イエス・キリストが共におられるのなら陰府は最早陰府ではなくなります。
インマヌエルの主なる神はイエス・キリストであり、我々と共におられる神です。
私がどこに行っても共におられる、死の世界に行っても陰府に行ってもイエス・キリストはとことん寄り添い、共に居てくださるのだと思います。死の世界も最早死の世界であり得なくなります。
なぜイエス・キリストという王様は、どこまでも低さを極められるのか不思議です。
神様の愛と恵みというものが、限界ばかりが付きまとう人間の思いを遥かに超えた偉大なものであることが迫って来ます。
イザヤ書にある通り、主はアハズに向かって神に対してしるしを求めるように言われました。
しるしを高い天の方にだけ求めるのではなく、深い陰府の方にも求めなさいということでした。
しかし、人間がしるしを求めることは神を試すことでもあります。
律法では神様を試すことが禁じられています。アハズは主の求めを拒んでしまいました。

それゆえ主なる神様自らがわたしたちにしるしを与えられることになるのだとイザヤは預言しました。
そのしるしはインマヌエルの神である御子イエス・キリストのご降誕から始まります。そして十字架でのご受難と死、陰府に下り復活なさったこと、天に昇られ父なる神の右の座に坐すことに至ります。
こうして、『神は我々と共におられる』という意味のなかに、
陰府に求めてもイエス・キリストは共に居てくださるし、天に求めてもイエス・キリストは共に居てくださるのだという意味があることが明らかとなります。

このインマヌエル預言を通して、イエス・キリストが「共におられる神」であるがゆえに人間が死んで陰府へ下ることの意味が全く変えられたことを知ります。さらにキリストが復活されたのだという事実は、信じる者を共におられるキリストが自らと同じように復活の命へ引き上げるのだということを明らかにします。復活とは天の御国へ帰り永遠の命に至ることであり、イエス・キリストが共におられる世界ですべてが完成されるのだと思いました。

総督ピラトの問い掛け

 

「そこでピラトが、『それではやはり王なのか』と言うと、イエ スはお答えになった。『わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆わたしの声を聞く。』

ピラトは言った。『真理とは何か。』」

ヨハネによる福音書18:37~38

イエ ス様にピラトが『真理とは何か。』と尋ねますがこの後イエ ス様の答えは書かれておらず、いったん場面が途切れます。

ピラトはイエ ス様に何の罪も見いだせませんでした。しかし、ユダヤ人たちはイエ ス様を十字架につけろと叫びます。

ユダヤ人たちは答えた。『わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。』

ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、『お前はどこから来たのか』とイエ スに言った。しかし、イエ スは答えようとされなかった。

そこで、ピラトは言った。『わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。』

イエ スは答えられた。『神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。』そこで、ピラトはイエ スを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。『もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。』」

ヨハネによる福音書19:7~12

結局ピラトはこのように訴えるユダヤ人たちに押されるようにしてイエ ス様を十字架につけるために彼らに引き渡してしまいます。

ピラトの『真理とは何か』という問い掛けについて考えてみます。

イエス・キリストを十字架につける権限を持っているのはピラトではありません。

神から与えられたイエス・キリストを十字架につける権限はイエス・キリストが神から与えられています。

イエス・キリストは神の独り子メシアである』これがピラトが問うている真理ではないでしょうか。

 イエ ス様は自ら十字架に向かいます。十字架から降りることもしませんでした。

これがメシア=キリストという王の唯一の統治です。

貧しい馬小屋で生まれたのはこの真理を実際に現すためだったのです。

わたしたちがイエ ス様を神の独り子メシアとして信じるならばイエ ス様の御声が聞こえる、そして聞き従うと書かれているのだと思います。

そのことを信じて耳を澄まして行きたいです。

エルサレム入城、ホサナ。

「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。
『ホサナ。
主の名によって来られる方に、祝福があるように、
イスラエルの王に。』
イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。
次のように書いてあるとおりである。
『シオンの娘よ、恐れるな。
見よ、お前の王がおいでになる。
ろばの子に乗って。』

ヨハネによる福音書12:12~15

イエス様が重い皮膚病で一度死んだラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたことを聞きつけた群衆がイエス様をこのように出迎えました。一方、祭司長たちは、多くのユダヤ人がラザロのことで自分たちを離れて行き、イエスを信じるようになったため、ラザロとイエスを殺そうと謀ります。イエス様はご自分が間もなく十字架に架けられることをご存知の上エルサレムに入城されるのです。

前日には、兄弟であるラザロを生き返らせてくださった主イエス様に、マリアが純粋で高価なナルドの香油を一リトラ、イエス様の足に塗り、自分の髪でぬぐうという出来事がありましたが、これはイエス様ご自身の葬りのための香油注ぎだったのです。

『シオンの娘よ、恐れるな。
見よ、お前の王がおいでになる、
ろばの子に乗って。』

新約聖書のこの御言葉は以下の旧約聖書からの引用と思われます。

「娘シオンよ、叫べ。
イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。
エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。
主はお前に対する裁きを退け
お前の敵を追い払われた。
イスラエルの王なる主はお前の中におられる。
お前はもはや、災いを恐れることはない
その日、人々はエルサレムに向かって言う。
『シオンよ恐れるな
力なく手を垂れるな。』」

ゼファニヤ書3:14~16

「娘シオンよ、大いに踊れ。
エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。」

ゼカリア書9:9

メシア預言にこのように記されたとおりにイエス様という王は馬ではなく、ろばに、そして更に力乏しい子ろばに乗っていらしたのです。

神と等しい方が、何の罪もない方が、罪ある私たちの身代わりとなられ、十字架の御苦しみに向かって歩んでおられます。

前の記事に記しました乙女マリアやカナンの女のようにへりくだる謙虚さは、イエス様の中に最も充ちていたことに気付きます。

このイエス様のお姿に武力と関わりのない王、真の救世主を見い出すことが叶います。

それは私に本来あったはずの神の裁きを退けてくださったイエス様なのです。

感謝します。ホサナ。

カナンの女と私たち

 

「イエスは、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった。

しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った。

イエスが、『子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』とお答えになると、

女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。』

そこで、イエスはお答えになった。

『夫人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』

そのとき、娘の病気はいやされた。」

マタイによる福音書15:24-28 

カナンの女は主なる神様の選ばれた民であるイスラエルの民ではありませんでした。

たとえパン屑であっても、主が与えてくださるものであれば十二分の恵みであり、

欠けたるところはありません、完全ですと彼女は答えたのです。

主イエスはこのカナンの女の信仰を褒めます。

私たち日本人も選ばれたイスラエルの民ではなく、カナンの女と同じく異邦の民です。

しかし、主なる神様は私たち異邦の民に対しても、

御子イエスの贖いを信じることによって救われるという約束を与えてくださいました。

信じるようにされてからもしばしば心細く、

私のような者をも救っていただけるだろうかと不安に陥ることがあります。

答えはやはり、このカナンの女のように主の恵みと愛にひたすら信頼し、

縋ることだと思います。

主の恵みというものは欠けたところがなく人知を遥かに超えて完全なものです。

その恵みの大きさを未だ見ぬうちに、どこまでも信頼し切る信仰が必要なのだと思います。

また、カナンの女の、私は本来ならば救いに値しない者ですという謙虚さは

恵みを真っ直ぐに受け入れる者に主が求めておられる姿勢であるように感じます。

自らを低くすることにより主なる神様への固い信頼と賛美を表していると言えるでしょう。

『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように』

ルカによる福音書1:38より 

乙女マリアはこのように謙虚さを持って、死の危険が伴う恵みを真っ直ぐに受け入れました。

カナンの女も乙女マリアも、通常は信じ難いことをこのように信じ切り、神様の祝福を受けました。

二人には『謙虚さ』というものが共通してありました。 

そして、注目したいことは、二人がそれぞれ自らを『主人の小犬』、『主のはしため』と言っていることです。

『わたしは主のものなのです』という信仰告白がはっきりと表されているのです。

どこまでも固く信じることは心細い者、弱い者にとって難しいことに思えますが、

私たちがなそうとすることが御心に適うことであれば主は助けてくださいます。

私たちがなすべきことは信じ切ることであると、

カナンの女の信仰を褒めた主が教えてくださいました。

いかなる者であっても私たちは主のものなのです。

『異邦の者をもご自分のものとして豊かに憐れまれる』主なる神様の愛を、

寂しさや心細さのさなかで思い起こして行きたいと思います。

言葉について:エフェソの信徒への手紙4:29

 

「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、

その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」

エフェソの信徒への手紙4:29

神様の御心を知るためには、聖書の御言葉に聞きます。

神様の御言葉というものは

何となく感動した、素晴らしかった、けれども明日には全く消えてしまった、

そのような力無いものではなくて、

私達を心の底から一新する力あるものだと思います。

人間のつまらない言葉は心に溢れているものが出て来ます。

それが人を汚すとイエス様が仰っています。

「しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。」

マタイによる福音書15:18

私達の言葉が悪しきものでなくなるためには心の底からの変化が必要です。

もしも誰からも愛されていなくて平安がなかったら心が荒んでしまいます。

エス様によって神様に愛されている平安を、神様の御言葉からいただくようにします。

目に見える他の被造物ではなくて、創造主である神様の御言葉にこそ

全てを造り上げる力があることを確信して行きたいです。

 

(聖句引用: 日本聖書協会  新共同訳新約聖書より)

 

教会はキリストの祈りの家

 

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」

コリントの信徒への手紙 一 12:27 

「『わたしの家は祈りの家と呼ばれるべきである。』」

マタイによる福音書21:13 より

「  教会はキリストの体であり、

すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」

エフェソの信徒への手紙1:23 

 

教会とは何だったのか、静かに考える時に読みたい箇所です。

 

 

 

(聖句引用: 日本聖書協会  新共同訳新約聖書より)

コリントの信徒への手紙一11章から

 

「すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、

感謝の祈りをささげてそれを裂き、

『これは、あなたがたのためのわたしの体である。

わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。」

コリントの信徒への手紙一11章23ー24節より

 

主の晩餐の制定について教えられる聖書箇所です。

聖餐式聖餐与る前にこの箇所を読んでおきたいと思います。

 

 

(聖句引用: 日本聖書協会 新共同訳新約聖書より)