「イエスは、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった。
しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った。
イエスが、『子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』とお答えになると、
女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。』
そこで、イエスはお答えになった。
『夫人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』
そのとき、娘の病気はいやされた。」
マタイによる福音書15:24-28
カナンの女は主なる神様の選ばれた民であるイスラエルの民ではありませんでした。
たとえパン屑であっても、主が与えてくださるものであれば十二分の恵みであり、
欠けたるところはありません、完全ですと彼女は答えたのです。
主イエスはこのカナンの女の信仰を褒めます。
私たち日本人も選ばれたイスラエルの民ではなく、カナンの女と同じく異邦の民です。
しかし、主なる神様は私たち異邦の民に対しても、
御子イエスの贖いを信じることによって救われるという約束を与えてくださいました。
信じるようにされてからもしばしば心細く、
私のような者をも救っていただけるだろうかと不安に陥ることがあります。
答えはやはり、このカナンの女のように主の恵みと愛にひたすら信頼し、
縋ることだと思います。
主の恵みというものは欠けたところがなく人知を遥かに超えて完全なものです。
その恵みの大きさを未だ見ぬうちに、どこまでも信頼し切る信仰が必要なのだと思います。
また、カナンの女の、私は本来ならば救いに値しない者ですという謙虚さは
恵みを真っ直ぐに受け入れる者に主が求めておられる姿勢であるように感じます。
自らを低くすることにより主なる神様への固い信頼と賛美を表していると言えるでしょう。
『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように』
ルカによる福音書1:38より
乙女マリアはこのように謙虚さを持って、死の危険が伴う恵みを真っ直ぐに受け入れました。
カナンの女も乙女マリアも、通常は信じ難いことをこのように信じ切り、神様の祝福を受けました。
二人には『謙虚さ』というものが共通してありました。
そして、注目したいことは、二人がそれぞれ自らを『主人の小犬』、『主のはしため』と言っていることです。
『わたしは主のものなのです』という信仰告白がはっきりと表されているのです。
どこまでも固く信じることは心細い者、弱い者にとって難しいことに思えますが、
私たちがなそうとすることが御心に適うことであれば主は助けてくださいます。
私たちがなすべきことは信じ切ることであると、
カナンの女の信仰を褒めた主が教えてくださいました。
いかなる者であっても私たちは主のものなのです。
『異邦の者をもご自分のものとして豊かに憐れまれる』主なる神様の愛を、
寂しさや心細さのさなかで思い起こして行きたいと思います。