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聖書からの黙想などを書いていきたいと思います。

父なる神と人間の関係・神は愛なり

「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。
ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」
創世記2:16~17(旧約聖書のことば)

「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」
創世記2:25 旧約聖書のことば)

しかし、蛇に唆された女は実を取って食べ、男に渡し、男も実を食べてしまいました。 

「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」
創世記3:7 旧約聖書のことば)

このように、いちじくの葉で腰を覆う二人は神を恐れて、隠れるのです。

完全な愛は恐れを締め出します。(ヨハネの手紙一4:18より)

無邪気な乳飲み子は自分の非が分からないため、全く父を信頼し、自分が愛されていることを疑いません。

彼らが善悪を見分けられるようになるとは、このように父なる神の厭うことが何であるかを知り、且つ行わずにいられなくなることでした。

そして、父なる神からの罰を恐れているのです。

父なる神と完全な愛で結ばれていた関係が壊れてしまいました。
神は言われます。
「『塵にすぎないお前は塵に返る。』」
創世記3:19より(旧約聖書のことば)
しかし、この後のことです。いちじくの葉で覆うような哀れな二人に神は皮の衣を作って着せたのです。
「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」
創世記3:21旧約聖書のことば)
裏切ってしまった二人は悲しく、父なる神も悲しかったと思います。しかし、裏切ってしまった二人への父なる神の神性の現れは憐れみ深い愛であることに気付きます。

愛のほかに神性には義と聖があります。

何となく誤魔化すようなあやふやさはなくて、 罪は罪として処断される厳しさも現されています。

この『塵にすぎないお前は塵に返る』しかなくなってしまった現実を父なる神ご自身が悲しまれているように思えます。

子供を憐れむ父の悲しみを感じます。

父なる神はご自身をささげて裏切ってしまった子供(人間)を救いました。

これがご自分と等しい御子イエス・キリストを十字架に架けてしまうことでした。

御子イエス・キリストは人間が受けるはずの罰を身代わりになって負うために十字架で苦しまれ死にました。そして、復活されました。

塵に返るしかない人間をイエス・キリストの復活により、塵に返るだけでなく新たによみがえり、永遠の命に生きるようにしてくださいました。

 

「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」

ヨハネの手紙 一 4:19(新約聖書のことば)


(聖句引用元 日本聖書協会 新共同訳聖書より)