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聖書からの黙想などを書いていきたいと思います。

心を置く場所

先日の礼拝メッセージから感じたことを記したいと思います。

聖書箇所はルカによる福音書12:13~21「愚かな金持ち」のたとえについてでした。

しまい切れないほどの豊作を得て金持ちは喜ぶのですが、働いた成果なのですから、ルカによる福音書15:11~32にある放蕩息子と単純に比べれば良いと見えることでしょう。

彼は作物をしまう大きい倉を新しく建てて、全てを自分のものとしこれから先何年も生きて行くだけの蓄えができたから、ひと休みして食べたり飲んだりして楽しもうと自らに言います。

しかし、この金持ちは今夜のうちにこの世での命が尽きると言うのです。

用意したものは誰のものになるのかと主なる神は問いかけておられます。

聖書が常に伝えるメッセージは自分中心に生きる虚しさと過ちです。それは偶像礼拝の過ちとされます。

偶像礼拝は主なる神以外のものと関係する意味でしばしば姦淫の罪にたとえられています。

選ばれた民は実際に偶像を作って礼拝したのですが、広い意味で神を忘れて肉なる自分を中心に生きることが偶像礼拝とされています。

肉なる自分中心の生き方とは神の霊に従う生き方と対極にある生き方です。

神は愛(第一ヨハネ4:8)なので愛のない生き方が神を忘れています。

聖書には滅びる生き方が痛烈に書いてあり、聞くに耐えない表記ですが、自分を省みる時に自分が自己中心に歩み出していないか確かめる助けとなります。

神を忘れ、他者を忘れ、無視して生きること、神を捨て、人を見捨ててしまう生き方に向かう傾向性が見つかれば方向転換しなくては、と思います。

目に見える他者についてなら、この他者のお陰だと思い起こすことが分かりやすいのかもしれません。

しかし、目に見えない神様を忘れるのは容易くて、しかもここから全ての方向性が決まっていくと思います。

豊かな作物、食べ物や着る物等の全てを神様から頂いて生きています。

その作物、食べる物も食べる人がいなければ何にもならないし、着る物も着る人がいなければ何にもなりません。

今日生きていて瀕死の重病でもなければ、食べる物や着る物を手にしないとならないと思うでしょうし、手にしても無駄にならないと信じることでしょう。

しかし、頂いているもののうち最も大切なものは神様が創造されて与えてくださった命なのです。

この自分の命がこの世でいつ絶えるかを、人間は何も知り得ません。

余計に得たとしても持ち物は無駄になります。こういった物への執着を捨てて、食べ物や着る物のない命を思いやるように導かれます。

この世での命を終えて塵となる以外に道はないのかと言ったら、そうではないと聖書は伝えています。

御子イエス・キリストを信じることで永遠に生きる命を神様は与えてくださいました。

永遠に生きて父なる神様を拝していくのです。

この神様の御国である天国を求めて生きるように主なる神様は望んでおられます。

神様は天国を与えてくださるからです。

「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」

ルカによる福音書12:3

アダムとエバの罪以来人間の務めとされた生涯顔に汗を流して食べ物を得たり、苦しんで子供を産むこと(創世記3:16~19)の必要はなくなります。

これらは一時的なものとなります。

愛し合う兄弟姉妹と共に永遠に神様を拝して生きていくのです。

神を拝するとは神に感謝をささげることです。

神様は命を創造してくださり、そして、天からの恵みの雨、生きるために必要な全てを与えてくださいます。

そして、本来持つ罪をイエス・キリストという究極の贈り物により滅ぼしてくださいました。

イエス・キリストを通して、神の国である天国を与えてくださいました。

この神様を自分一人でではなく、一人でも多くの他者と共に拝していくのです。

そのために豊かになることが見つかるでしょうし、朽ちてしまうものが何であるかも見分けられるようになるでしょう。

朽ちることのない富を積むべき場所は塵の行着く場所ではなくて天国です。

心をこの天国にいつも置くことで虚しい歩みを止めて行くことが可能となるのだと思いました。