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聖書からの黙想などを書いていきたいと思います。

イエス様は私達の心に何かを書いておられる

「3そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4イエ スに言った。 『先生、この女は姦通をしているとき捕まりました。 5こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。 ところで、あなたはどうお考えになりますか。』 6イエ スを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。 イエ スはかがみ込み、指で地面に何かを書き始められた。 7しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエ スは身を起こして言われた。 『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』 8そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエ スひとりと、真ん中にいた女が残った。 10イエ スは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』 11女が、『主よ、だれも』と言うと、イエ スは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』。」
ヨハネによる福音書8:3~11

イエス・キリストは屈んで地面に何かを書いていました。 一体イエス・キリストは何を書いていたのでしょう。

この辺りの記述について、以前牧師先生がご自分の想像するところを述べていらっしゃいました。

御言葉をあまり勝手に解釈してはいけないと思いますが、牧師先生も想像されるなら大丈夫かもしれないと思いました。

それで私も想像してみようと思います。

まず、女に対してご自分がどうされるおつもりかを示されていると感じます。

以前から存在する律法によれば死罪となる姦通罪です。

その姦通の罪が目の前にありますが、そこに居合わせていながら、罪への裁きに対しては完全に関係を異にされているように感じます。

そしてもうひとつ、一人、また一人と去って行く人達の心の中に律法が書かれて行く気がします。

律法は人の心に罪を刻み付ける働きがあると思います。

全ての人間には自らの罪状書きがありますから、女を使ってイエス・キリストを陥れようと憎悪する人達は皆自らの罪状書きがあることに気が付いたのだと思います。

この中で唯一イエス・キリストだけには書くべき自らについての罪状書きがありません。

イエス・キリストは女にも憎悪する人達にも上からではなく、身を屈めて低い場所から何かをされていたのです。

女からも憎悪する人達からも決して離れず寄り添われていました。

身を屈めて小さな子供のように、父なる神に示された通りに真っ直ぐに従順に書いておられたのだと思います。

「33しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。 すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。 わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 34そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。 彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。 わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない。」
エレミア書31:33~34

人を憎むことと殺すことに平安はないです。

イエス・キリストを憎み、何とかして陥れようとする彼らも、女同様に罪の奴隷としての哀れな存在として浮かび上がる気がします。

「9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエ スひとりと、真ん中にいた女が残った。 10イエ スは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』
11女が、『主よ、だれも』と言うと、イエ スは言われた。
『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』。」

全ての空気が全く新しいものに変えられたこの場面が、エレミア書の預言の御言葉を想起させます。
また、ヘブライ人への手紙8:8~12にこのエレミア書の預言の言葉が再び書かれています。
そこからもイエス・キリストがどういうお方かをさらに深く読み取ることが出来ると思います。

確かにイエス・キリストは女と立ち去って行った敵を罪の赦しにより癒し、清められたと思います。

イエス・キリストは低い場所で寄り添いながら、私たちの心に律法を新しい契約として完成されたかたちで記し続けておられるのだと思いました。


(聖句引用: 日本聖書協会 新共同訳旧約聖書・ 新共同訳新約聖書より)