yupaloma03’s blog

聖書からの黙想などを書いていきたいと思います。

立ち帰って、生きよ

「『21悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。
22彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。
23わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。
24しかし、正しい人でも、その正しさから離れて不正を行い、悪人がするようなすべての忌まわしい事を行うなら、彼は生きることができようか。彼の行ったすべての正義は思い起こされることなく、彼の背信の行為と犯した過ちのゆえに彼は死ぬ。』」
エゼキエル書18:21~24(旧約聖書のことば)


「31『お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。
32わたしはだれの死も喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」
エゼキエル書18:31~32(旧約聖書のことば)


エレミヤ書エゼキエル書ではエルサレムの陥落と荒廃にまつわる言葉が綴られ、読んでいて怖くなることが多くあります。
自分の罪や過ちというものを思い起こして重ねてみたりしますが、なかなか主が何を仰られているかを悟ることが難しいのです。
しかし、徐々に、旧約聖書のことばそのものの中にイエス・キリストが仲介者として存在されていることは分かって来ました。

『お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。』
この新しい心と新しい霊がイエス・キリストにより、完成された新しさなのだと思います。


「2あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
3わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。
4というのはわたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、
5わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」
ローマの信徒への手紙12:2~5(新訳聖書のことば)

 

クリスチャンになってからは罪や過ちを犯さなくなるかというと、私はそうではないです。
キリストにより罪が何であるかを悟るようになるために、罪が分かるから罪を犯さなくなるという理論があるのかもしれません。
けれども、人に言われぬ理由があるとはいえ、私自身は他の方々が神様に熱心に仕える姿勢に追い付いて行けずに、不信仰と言われても仕方ない遅々滞滞の日々を送っていたと思います。
教会について行かれないという淋しさも感じています。
そこからいい加減になって堕落しそうになっていることを認めて、まず主に対して繰り返し悔い改めをして行きたいと思います。
まず、一方的な主の憐れみを感じることが始まりのようです。
私が不信仰な状態にある時でさえ、主は私がどうであるかより、主が私をご自分が選ばれたイスラエルの民に加え、イエス・キリストにより、ご自分の霊的な民としてくださったことと、私が神様が主であることを知ることになると言われるのだと思います。
そして、生きよ、と言われるのだと思います。
立ち帰って、生きよと言われるのだと思います。
帰る場所があり待っていてくださる方がいらっしゃるとは素晴らしいことだと思います。
永遠なる神様は毎日生きていらしてご自身の慈しみと厳しさを考えるように教えてくださると思います。 

また、主イエス・キリストが死んだと思われた会堂長の娘を生き返らせた場面で主イエス・キリストがこう言っておられる記述があります。


「54イェスは娘の手を取り、『娘よ、起きなさい』と呼びかけられた。
55すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。」
ルカによる福音書8:54~55(新訳聖書のことば)


生き返らせた主は『起きなさい』と仰られています。
霊が正しく戻ったという完全な主イエス・キリストによる癒しの結果、どうなるのでしょうか。
主の起きなさいという呼びかけに応えてすぐに起き上がる必要があることが分かって来ます。
起き上がるということは単なる動作ではなく、主に立ち帰って生きることを表していると感じました。しかも、主が呼びかけておられならばすぐにそうする必要があると気が付きます。12歳の娘が悔い改めるべき罪びとであったとは考えにくいです。ですから人間側から安易に過ちがある、無しを考えると上手くいかないのではないかと思います。原罪からいえば私たちは皆同じに悔い改め続け立ち帰り続けるように主が定めておられると感じます。