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聖書からの黙想などを書いていきたいと思います。

刻が遅れるという意味が変わる

礼拝メッセージで「待つこと」は自分の時間を相手にささげる愛の行為だと聞いて参りました。
一方他の場所では、「遅刻は時間泥棒だ」と聞いたことがあります。
相手の時間を奪ってしまう行為だと戒めて、遅刻はしまいと思っていました。
聖書には「待ち望む」という言葉がたくさん出て来ます。


「主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む」創世記49:18
「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
なぜ呻くのか。神を待ち望め」詩編42:6
「主を待ち望め
雄々しくあれ、心を強くせよ。
主を待ち望め。」詩編27:14
「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」フィリピの信徒への手紙3:20


これらは私たち信仰者が神様の救いを、キリストの再臨を待ち望むという意味です。
信仰者は目に見えない神様からの救いの実現を常に待ち望むこととなっています。


「8愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。
9ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」
ペトロの手紙二3:8~9


遅刻が破壊的な迷惑行為に至るには、待っている側が苦痛を感じて相手を嫌悪する必要があります。
苛々して来て、時間になっても現れなかった相手を信頼出来なくなり、裏切られた気持ちにまでなってしまうのでしょう。時間は誰の人生にとっても貴重なものです。
それにしても、友人を泥棒呼ばわりすることは悲しいことです。
本当は相手側に何か理由があるからだと相手を責めない必要があると思います。
相手には理由がある、そう考えると遅刻は破壊的迷惑行為ではなくなります。


神様の救いの実現を遅いと感じて、神様への信頼が揺らぐことを警戒するように聖書は呼び掛けています。
神様ご自身には、私たち人間の想像を超えた理由があるからです。
私たち信仰者は待ち合わせ場所で、神様からもたらされる救いの実現を待っていると言えます。そして神様とともに出掛けるとしたら共に神様の御国へ行くのです。
神様のお時間は、私たち人間の持つ時間と全く異なることをわきまえた上での待ち合わせと言えるでしょう。
私たち信仰者は腕時計を持っていても、全く違う針を指している神様の時計に合わせて待つしかありません。
そして、神様の時計を見ないでお待ちするしかないのです。
神様へ愛と信頼を堅くするなら、待つことが出来ます。


信頼して待つということが成立した時に、破壊的迷惑行為としての遅刻は成立しなくなります。
刻が遅れることは、「待つ」側の心で意味が変わるのだと思います。
「待たされている」と思う前に、主なる神様ご自身が私たちを待ち続けておられたこと、待ち続けておられることに心を留めるべきなのです。


こう考えていったら、気が付いたことがあります。
待ち合わせ場所が普通の場所で、待つ相手は友人か同僚か、そんなシュチュエーションで相手を時間泥棒呼ばわりする前に、少し考えたいと思います。
必死に反省して遅刻しない自分になれたら、今度は相手を泥棒呼ばわりしてしまいそうだからです。
それは、「遅刻が時間泥棒だ」という言葉自体に普遍性が欠けるからだと感じました。(正しく言葉を定める方はキリストであると考えています。)

待ち合わせ場所が学校で、いじめっ子がいじめるために待ち受けているケースもあります。実は人生には美しくない待ち合わせがたくさん潜んでいるということに気付きます。


イエス・キリストが「成し遂げられた」と言い、息を引き取られた場所はゴルゴダの十字架でした。ヨハネによる福音書19:30より)
イエス・キリストはこの待ち合わせ場所を、父なる神様に従い、ご自分で選ばれました。誰が待ち合わせ場所で待っていたかと言うと、ご自分を殺そうという敵意に満ちた人間たちだったのです。

イエス・キリストは神様の独り子でありながら、待ち合わせの後で得たものは死の御苦しみでした。イエス・キリストが私たち全人類の待つべき最悪の待ち合わせをその身に背負ってくださったのです。何という重さでしょう。それがキリスト(メシア)なのです。

殺した彼らが罪の全く無いイエス・キリストに泥棒以上の濡れ衣を着せたことは言うまでもありません。十字架刑はイエス・キリストを「見せしめ」にしようと為されたことなのですが、私はイエス・キリストを取り囲んで殺す人間側が「見せしめ」にされていると思います。

彼らは私であると考えるならば、きっと私は油断すれば隣人を責める者となります。それはイエス・キリストを、神様を、責める者になることでもあるのです。


たった一度、最も残酷な待ち合わせ場所と待っていた人間たちのために、イエス・キリストがご自身を犠牲としてささげ、成し遂げてくださったのですから、少なくとも遅刻したからといって泥棒にされる人はもういなくなりました。そして、人の罪や過ちについて、もっと深く創造的に考えていく必要が生じているように思うのです。

神様の持っておられるお時間には「永遠」があります。人間はこの「永遠」を表す時計を持ち得ないのですが、自身をイエス・キリストのようなヒーローの側ではなく、イエス・キリストを殺す側に見立てた時に奇跡が始まります。

良からぬ思いで相手を待つ瞬間がある自分に気が付くこと、待っている間にふと相手にやってしまった或る出来事が頭に過ること、傍らに自分に道を訊こうという小さい存在があるということ、本当に刻一刻と世界が変わっていくことに気が付けるように思うのです。

私たちは、もっと良い待ち合わせというものを待つ者同士になっていくように招かれています。


好ましくない言葉と思いを心の中から根こそぎ抜き去りつつ、日々新たにされていきたいと思いました。

私たちが神様を愛する前から、こんなにも神様の愛が私たちに注がれていたのだと気が付くように生きていきたいと思います。

 

(聖句引用: 日本聖書協会 新共同訳旧約聖書・ 新共同訳新約聖書より)