「40すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』
42そして、『イエ スよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。
43するとイエ スは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」
ルカによる福音書23:40~43
イエス・キリストのようなヒーローの側ではなく、殺そうとしている人間たちの側に立つだけで良いかと考え直してみると、それだけでは足りないと思いました。
私が何か大きな苦痛を堪える時、イェス様を深く知らない時は死にそうだったけれども、今は磔にされているイエス・キリストが共に居てくださるから我慢が楽になったと思うことが増えたことを思い出しました。
私は肉体の苦痛でそう思っただけでしたが、精神的な苦痛を堪える時にも適用して行かなければ、と思いました。
耐え難い屈辱、悲しみ、怒り。
死は誰の上にも訪れますが、滅びに至る死の使者は、サタン性を帯びて他者を道連れにしようとします。
磔にされたイエス・キリストの両脇に犯罪を犯した二人がいました。
死の間際にある人間の二つの相反する心を表していると思いました。
1人はイエス・キリストを罵りました。
こちらがサタン性を帯びた死の間際の心に感じました。
私たちは死に際して、死の間際迄、必死でイエス・キリストに心を向け続けなければならないと思います。
死の苦しみは孤独で恐ろしいものだし、死ぬならば地獄へ道連れにというサタン性を帯びた心が迫って来るかもしれないと思います。
「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
これは犯罪を犯した特別な人間の発言ととらえるべきではないと気が付きました。
人間は全て罪人であり、本来は死の先にある滅びまでが確定されていたのですから。
死の先にある滅びしか見ようとしないならば、もう何をやろうが同じだとサタン性に支配されてしまいます。
死の間際に、「イエ スよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったことは、死の先にイエス・キリストという方に思い出していただけるという希望を持つことです。
これが神の国である御国(楽園)そのものだと感じます。