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聖書からの黙想などを書いていきたいと思います。

目を覚ましていること

「『42だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。』」

マタイによる福音書24:42

「『13だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。』」

マタイによる福音書25:13

「『35腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。

36主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしなさい。』」

ルカによる福音書12:35~36

 

 イエス・キリストは再臨されて救われる者と滅びる者とを裁かれます。この他にも手厳しい言葉を語っておられます。

地獄へ行きたくない、御国へ行きたい、そうは思っているけれども、自分は目を覚ましていられるだろうかと不安になることがあります。もう無理かもしれないと思って悲しくなっていました。

 でも、こんなふうに考えてみました。

もしも愛する家族が外出していたら、家にいる自分の元へ帰って来ます。その家族を愛しく思っているのなら、帰りを気にするでしょう。

家族がどんな靴を履いて出て行ったか、知っています。体重も知っています。家族の歩き方の特徴を知っています。だから、靴音を聞き分けられます。

陽が落ちる時刻、気温の変化、物音を気にするようになっていきます。そろそろ仕事を切り上げて、玄関に何時でも向かえるように準備し出します。

徐々に鼓動すら高まる、それが愛する家族を待つということでしょう。

 イエス・キリストを私は愛しているでしょうか

見に見えないイエス・キリストを毎日感じているでしょうか

毎日御言葉を読んで、イエス・キリストが私にとってどんなに素晴らしい方か、毎日感動していたら、こんなに不安にならないかもしれないと思います。

イエス・キリストへの愛が無ければ、イエス・キリストが帰られる時を待つことは出来ないのです。

目に見える他のことばかりに気をとられ、イエス・キリストのことを考えていないから不安なのです。

確かに今の私はイエス・キリストを見ていない、言葉面で言ってみても虚しい。

イエス・キリストのまなざし、イエス・キリストの心、イエス・キリストの温もり、帰られる時を待ち望みたいです。

恐れ多い、恥ずかしい、何か制するものがあるのなら、取り除いて、イエス・キリストをもっと親しく愛してみたいと思います。

 

「18愛には恐れがない。完全な愛は恐れを閉め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」

ヨハネの手紙一4:18

 

 もうすぐアドベント待降節)です。イエス・キリストがこの世に降りて来てくださった日を待つ季節となります。

救いの御子イエス・キリストがこの家に、私に、入って来てくださいます。

イエス・キリスト様、愛させてください。

 

 

(聖句引用: 日本聖書協会 新共同訳 新約聖書より)