(日記として正誤を気にせずに言い切っています。万一ご覧になる際は自由意志にてご判断をお願いいたします)
ヤコブの手紙 2:8~11新共同訳
「8 もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。
9 しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。
10 律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。
11『姦淫するな』と言われた方は、『殺すな』とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。」
律法に関して言えば、ひとつ違反をすれば有罪とされます。
それで私たちは全ての者が有罪とされました。
人間的な価値観から言えば、違反の多さと違反の大きさが問われます。
しかし、神様はたったひとつの小さな違反をも有罪とされます。
たくさん違反をしても大きな違反をしても同じように有罪とされます。
全てが同じ罪です。
聖であり義である神様は、人間が背いた結果生じたご自身と人間の関係の破綻を罪とされました。このたったひとつの罪を、このように表しておられるのではないかと思います。
唯一である神と、唯一ご自身に似せて創造された人間との関係の破綻を唯一の罪とされるならば、人間的な価値観では決して説明し切れません。
負債を赦していただくということに関しても同じことが言えると思います。
ひとつを赦していただくこと
ほんの少しの額を帳消しにしていただくこと
たくさんのことを赦していただくこと
莫大な額を帳消しにしていただくこと
主なる神様は御子イエス・キリストというメシアにより、これら全てを為し遂げてくださいました。
聖であり義である神様は愛であるからです。
これら全てが全く等しく無罪とされたのです。
先に挙げたたったひとつの罪へのたったひとつの赦しがこのように表されました。
ルカによる福音書7:36~50に、罪深い女がイエス・キリストに香油を塗るという記述があります。
たくさん赦されたからたくさん愛すると人間的な価値観で説明しますが、真の論点はそこにはないと思います。イエス様はカナンの女の信仰と百人隊長の信仰をほめられましたが、ここでもただ女の信仰のあり方をほめたのではないかと思います。
この罪深い女はたったひとつの赦しの重大さを理解できていた。このたったひとつの罪を赦していただいたのだという深い自覚とそのことに突き動かされた愛の行為が最も熱く記されていると感じます。
全人類が唯一神である神様の御前に「罪と赦し」ということに於いて平等とされました。
しかし、人間の目に見える世界ではこの平等が認め難く、信じ切ることが難しいようです。
見えない世界であっても、神様が仰るならばそうに違いないという切実さはルカによる福音書の罪深い女には見て取れます。
ところで、この人はユダヤ人ですが、「神様の選び」は罪を犯したからと言って帳消しにはされません。
異邦人が信仰深く生き、義人に近い生き方をしたとしてもユダヤ人のような選民にはなれません。
ユダヤ人だけが神様に選ばれた民です。ユダヤ人が驕り高ぶっている訳ではありません。メシア、イエス・キリストもユダヤ人です。そして、イエス・キリストを除いた全ての者は、選ばれたからと言って過ちを犯さないということがありません。
彼らへの思いが同胞に対する思いとかけ離れていきませんように。ユダヤ人が優れているのは選民だからかもしれません。独特に見えて何か憎むとしたら異邦人の妬みなのかもしれません。そしてその憎しみには悪霊の力が働いています。神様の選び、ご意志に逆らうことになるからです。悪霊は神様への反逆者であるサタンが加担した霊です。
唯一神である神様の「選び」を選ばれた民以外は理解出来ません。異邦人は選ばれていないからです。私も理解出来ないまま、そうなのだと信じるだけです。そこには聖域のようなものがあるので、安易な入り方をせずに敬意を払い続けられたらと思います。
敢えて言ってみるならば、選ばれていない私たちは選びをいつまでも認めず、受け入れずにいると、違犯について誤判断を繰り返し、悪霊の罠にはまります。
ユダヤ人が神様に逆らう姿を聖書で読んだ時に、私たち異邦人の姿にそのままなぞらえてはなりません。私たちはその謀反には神様と選民との関係が記されていることを認めるべきです。容易く、私たちだったらこうはしないなどと考えるのはおかしいことです。ユダヤ人を応援することのために、主の御言葉に書かれている以上に他の民をないがしろにするのもおかしいことだと思います。
神様がひとつの民を選ばれたということは生半可ではありません。この選民に関わる妬みだけは神様の救いのご計画に用いられたことからもそう感じます。
人間の憎しみは悪霊の力によるものですが、そのようなものは打ち捨てて、主のご計画の力にこそ注目するべきなのだと思います。
父なる神様が創り主であり陶器師です。
ひとつは尊い器に、ひとつは卑しい器に造られる権能を持っておられます。陶器は陶器師に不平を言えるでしょうか。
ローマ人への手紙 9:19-29 口語訳
「19 そこで、あなたは言うであろう、『なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか』。
20 ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、『なぜ、わたしをこのように造ったのか』と言うことがあろうか。
21 陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。」
また、カインとカインの献げ物ではなくて、弟アベルとアベルの献げ物が主に認められました。
(創世記4章)
主がそうなさるので人間は何も不平が言えません。
私もそうですが、神様のなさることに対しては信じますと言えても、こうに違いないとは言えないと思います。自身の理解できる範囲に主をおさめようとすることは無意味です。
妬みは人間の間に常に生まれます。蔑みもたくさんあります。人間の目に見える世界では不平等と優劣がありありとしていています。人間的な価値観で量ると常に、尊いことに用いられた器が見えます。逆に卑しいことを満たした器が見えます。
妬んだり、蔑んだりが止められないのは、全人類がたったひとつの違犯だけを平等に抱えていることを認めていないからでしょう。
神様との関係が壊れていたら、他の全てがどんなに素晴らしくても何にもなりません。死が待っています。
それでも見える世界に執着して、妬みと蔑みに支配されていることを認めることが悔しいのです。
神様との関係を壊してしまったという、このたったひとつの違犯の解決が人生の目的です。
御子イエス・キリストにより、この死に至る罪を赦していただいたという喜びによるのならば、どろどろとした妬みと蔑みも解決可能となるのではないでしょうか。今新たにイエス・キリストの徹底して裁くことを禁じた教えが活きてくるように思います。その先にあるものは安息への道です。
大き過ぎて人間が語れない程のたったひとつの赦しなのです。
御子イエス・キリストによって、父なる神様との関係が完全に回復されました。
「この赦しが欲しかったのだ、この赦しがあればあとはもうどうでもいい」そう思う時、悲しみに在っても喜びに在っても、突き抜けたような澄んだ光が生まれます。屁理屈が消える時、素直な愛が生まれます。握りしめた手を放さないとならないでしょう。主を握りしめているのです。愛を握りしめているのですから。
「言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。』」
マタイによる福音書18:3