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聖書からの黙想などを書いていきたいと思います。

イエス・キリストが泣いておられたこと(2)

(上の記事の続きとなります)

 

キリストが永遠に統治する王国で私達が具体的に何をしていくのだろうと考える時、以下の御言葉が導いてくれます。

「34そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしに祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」

(マタイによる福音書25:34〜36)

私達が立派に悪い人々を裁いて制圧したから御国を受け継ぐとは書いてありません。すべての国の民をキリストが裁くとあります。御国のご性質がこうであると弁え、御国に入れるように準備する必要があると思いました。

そして、これらの善い行いは王にしたのではなく、人間の最も小さい者である誰かに対して行うことだというのです。人間の目に見える範囲のやり方では実行出来ないでしょう。最も立派に見えない人達に対してしなさいという意味ですから。キリストが共におられ、キリストに自らの罪を赦していただいたことを意識しないことには、実行は本当に難しいです。他者に対して自業自得だと思ってしまったり、裁いて良いと思うような悲しみのない心では出来ないと感じます。

罪人や弱い人へ泣くような憐み深いイエス・キリストによる罪の赦しを福音の中心に据えないと、命を選び取るようなこれらの善い行いをしていく元気はすぐに尽きてしまいます。

罪を赦されて滅びないということが最大の感謝と元気の源だと思うからです。

それから分かることは『朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい』(ヨハネによる福音書6:27より)という御言葉は教会の使命を表し、このことがとても重要だということです。

神様が望んでおられることなのですが、なぜこの方の御心を行わなければならないのか、なぜそうしたいと思えるのか、立ち止まり考えます。

この方が形容しがたく憐れみに富んでいて素晴らしいからです。真っ先にこの方を讃え、この方を礼拝したいと願っていることが分かります。

神を礼拝することは最も大きい奉仕、サービス(servise)だと以前伺いました。

礼拝は朽ちない食べ物のために働くことと言えます。ですから、教会の使命は、まず父子御霊なる神を礼拝することです。

まず神を愛し、隣人を自分のように愛せよとあります。神を礼拝し続け、永遠の命に至る神のパンであるキリストに従い、学べば、隣人への善行を行う力が生まれるのだと思います。

そしてそれらの善行は、隣人の必要を一時的に満たすことを指していないことが分かってきます。

「20この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」

(コリントの信徒への手紙 一 15:20)

永遠に飢えず渇かず、住まう宿があり着るものがある、永遠に見舞われて訪ねてもらえる、そういった恵みを他者が得られるようにする善行が求められていると思います。

そういう善行は隣人を御国へ共に入れるようにすることです。

罪を悔い改めなければ滅びる(罪を悔い改めれば赦されて滅びない)とはっきり伝えて宣教することで、それが人間を憐み泣いてくださる御子イエス・キリストが仰る教会への大宣教命令なのだと思います。

キリストとの関係を正しく保つということは、自らの罪を赦していただいたという意識から心を逸らさないことではないかと思います。

自らの罪の問題を見つめ続けることと、罪を悔い改めなければ滅びると伝えることをしないとなりません。

しかし、それはキリストが人を裁くこととは違います。

神と人間の違いは強烈なものです。人間は神を賛美した舌で人を呪ってはいけませんが、舌を制御できる人は一人もいません(ヤコブの手紙3:8〜9)。

当たり前ですが、イエス・キリストによる神と人間との和解の成立は、御子イエス・キリストと人間が肩を並べられるようになったという意味ではありません。

「3あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。4兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。5偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」

(マタイによる福音書7章3〜5)

上の御言葉にあるように、自分の目の中に丸太があるのに、他人の目にあるおが屑を取らせてくださいと言って迫って行っても無駄で、自分の目にある丸太を取り除いてからまた他人の目にあるおが屑を取らせてくださいと迫って行くようなことが伝道なのではないかと思います。

また、私が思うに、自分の目の中に丸太があることはとても痛くて苦しいものです。これがもしかしたら、キリスト者が謙虚になれたり、新しくなれるチャンスなのかもしれないと思います。キリストは何もかも正しくご覧になられていますから、自分の目の中の丸太に気付いて取り除くことを助けてくださいます。

ここまで考えてみますとある意味、王様でない誰も気が付かない人に気付かれない善行、どこも狙っていないで自然にやってしまう善行、本当に効果があったか確かめられもしない、迷惑だったかもしれない善行。私の目の中の丸太、誰も見ていない丸太、私の目の中の丸太取ってくださいと叫び祈る 伝えずにいられなくなり人に迫って行く、変人扱い。これらを所謂善行と呼べるかと言うとやはり見えない世界、信仰の結果に間違いないと感じました。

十字架の主はその御姿のみで、輝かしい天下無敵の強大な王に感じられます。自らの罪を知る者、誤魔化すことが出来ない者にとってはこの方に勝る王などいないのです。

イエス・キリストは命について教えてくださる王です。

主を礼拝しつつ、自分と隣人の命を選び取っていくことが宣教になるのではないかと思います。

罪を赦されて罪と死から開放された命を持つということがいちばん素晴らしい宝物です。それを他者と分かち合っていくのです。

一応精一杯ここまで書いてきましたが、やはり足りませんでした。私は主の御心ならばもっと学んでいきたいです。

終わりの日と引き上げられる日がいつか聖書にははっきりとは書いてありません。

その日その時はイエス・キリストご自身すら知らないと言われました。

人のかたちをとられた神であるイエス・キリストは人間の模範として徹底的にそれらを知るまい、知らないままで生きなさいと教えておられる気がします。

人間が惑わしから守られるための父なる神様のご配慮のように思います。

人間から近い将来の出来事を口にしてタイミングは大体この辺りですと言われ、自分でも何月頃だと思うようになったら気をつけたいと思いました。知っていると言ってしまっています。

ペトロの手紙 二 1章20節から21節に、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきでないとありますから、感想として書いています。

黙示録の中に悲しみの心を人間に向けておられる主の鉄の杖を見ていきたいと感じます。

 

(聖句引用:日本聖書協会 新共同訳旧約聖書・新共同訳新約聖書より)