「『この方こそ、
「あなたがた家を建てる者には捨てられたが、隅の親石になった石」
です。12ほかの誰によっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。』」
信徒言行録4:11〜12
「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」
ローマの信徒への手紙10:13
「20神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、21すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」
エフェソの信徒への手紙1:20〜21
「9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエ スの御名にひざまずき、11すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて救われるのです。」
フィリピの信徒への手紙2:9〜11
「17そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエ スの名によって行い、イエ スによって、父である神に感謝しなさい。」
コロサイの信徒への手紙3: 17
イエス・キリストの御名前を私達は口に上らせることが許されています。たくさんイエス・キリストの御名前によって祈らないとならないと思います。
今月初め、不眠明けにパソコンで早朝から仕事をしていて疲れて横になった時、金縛りに遭いました。中学生時代から頻繁に金縛りに遭い、両足首を掴まれて引っ張られる等の経験はかなり積みました。受洗してからは誰に相談するでもなく、ずっと「イエス・キリストの御名前によって命じる。出て行きなさい。」と、何とか言葉に出して切り抜ける方策を取って来ました。いつも怖いとは思えずについ金縛りを放置し過ぎて、「イエス・キリストの御名前によって命じる。出て行きなさい。」と祈る声が出なくなってしまい苦しむといった感じでした。声が出てそう祈ると必ず解除されました。
でも、今月初めのものは、今までとは明らかに違っていて首元で声が聞こえたので、直ぐ様「イエス・キリストの御名前によって命じる。出て行きなさい」と口に出して祈ろうとしました。そうしましたら、「イエス・キリストの御名前によって」まで口にした途端全て解除されました。身体はかえってすっきりしていました。
あとで自分の生活や人間関係を振り返るなどしたものの、はっきりした理由は分かりませんでした。
ただ、今回はイエス・キリストの御名前の威力を痛感しました。
御名をたたえたいと本当に思います。
昔から印象的な言い回しと感じるnot your business/not my businessという言い方があります。「お前(私)の知ったことではない、干渉する権利はない。」という意味です。
イエス・キリストの御名前の支配下にある私達はイエス・キリスト以外の何かから干渉されるべきではないし、そちら側に干渉する必要も皆無です。
イエス・キリストを自らの救い主、メシアであることを告白させる助け主が聖霊です。聖霊がイエス・キリストを生き生きと実感させてくださいます。それは喜びと平安です。聖霊をいただくためには、私達は霊を受信するシステムをオンにする必要があります。それだけでは駄目です。受信するチャンネルを聖霊のチャンネルとし、聖霊の周波数だけに合わせることを選び続けなければなりません。それは神様をひたすら求めることになります。聖書を開いて神様の御言葉をいただいていくことになります。努力が必要ですが、これらが予め神様が与えてくださった恵みだからこそ、可能となる努力なのだと思います。そして、神様の恵みにお応えすることになるのだと気付きます。何かの理由で他のものをキャッチしたならば出来る限り短時間で断ち切ります。本来関係ないもの、関わりのないものだからです。そしてイエス・キリストの支配下でそれらは何の権威もありません。立ち入り、干渉しようとしてもイエス・キリストの御名前がそれを許しません。not your businessなのです。
心も身体も重くなる状況にあるならば、尚のこと意識的にイエス・キリストの御名前のもとに生き続けていかなければならないと思います。どんどん積極的に関わりを持つべき方がイエス・キリストなのです。そこに救いへの喜びと感謝が生まれて光がさすことでしょう。
また、もう少し霊的な問題を考えてみたいと思います。
「1愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。
2イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。
3イエ スのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。」
ヨハネの手紙 一 4:1〜3
(コリントの信徒への手紙 一 12:3参照)
第一ヨハネではこの御言葉に続いて、有名な「神は愛」の箇所が登場します。
悪霊もイエ スが神の御子メシアであることを知っています。しかし、神は愛であり、愛には恐れがない、完全な愛は恐れを締め出すとあるのに対し、悪霊は神の御子イエス・キリストを非常に恐れています。(マタイによる福音書8:28 〜34、他 マルコによる福音書5 :1 〜20 ルカによる福音書8 :26 〜39等参照)
もしも、自分を省みる必要があるならば、身体と心を休ませながら、御言葉に照らしてみると良いと思います。霊の思いが何であるか、また肉の思いが何であるか、自分の思い、言葉、行いを照らしてみたいです。(ガラテヤの信徒への手紙5 :16〜26参照)
間違いを覚えたならば、愛である神様に悔い改めの祈りをささげて清めていただきたいと思います。
悪である何かを長く見ること、長く浸かることは良くないです。イエス・キリストの御名前に照らしたら全く惹かれるものはありません。イエス・キリストの御名前によって神様を崇めるようにされた者は、同時に神ならざるものを崇めることは出来ません。それらを崇めることは偶像崇拝となります。神ならざるものを汚れ、悪とするならば、それらとは全く関係がなくなったという摂理が働くことは、第2コリント6:14〜18に書いてあります。
「16神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。
『「わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
そして、彼らの神となり、
彼らはわたしの民となる。
17だから、あの者どもの中から出て行き、
遠ざかるように」と主は仰せになる。
「そして、汚れたものに触れるのはやめよ。
そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
18 父となり、
あなたがたはわたしの息子、娘となる。」
全能の主はこう仰せられる。』」
コリントの信徒への手紙 ニ 6:16〜18
ここで注意したいことは、汚れたものは大概は他者ではなく、自分の内側に潜んているものだと思うことです。生ける神の霊である聖霊が住んでくださる神殿にまでしていただけた自らなのです。そのような本来の自分のもの(仕事)ではないことに気付いて、手放して捨てましょう。not my businessも大事です。イエス・キリストの御名前によって慎重に大胆に、手放して捨てるのです。
「1愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」
コリントの信徒への手紙 ニ 7:1