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聖書からの黙想などを書いていきたいと思います。

基づいて

「11わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。
12わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」
ヨハネの黙示録20:11〜12

「24はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」
ヨハネによる福音書5:24

「3わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。

4あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。

5それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。

6あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。

7あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、

8また、“霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。

9こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、

10すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。

11そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、

12光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。

13御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。

14わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

15御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。

16天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。

17御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

18また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。

19神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、

20その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」

コロサイの信徒への手紙 1:3‭〜‬20

(日本聖書協会 新共同訳 新約聖書より)

天国にはどのような人々がいるのでしょうか。御言葉を守り抜き、信仰の結果素晴らしい方々ばかりなら、私はまた気遅れがします。また、会食恐怖症の人は祝宴が至福の喜びだと言われて怖いかもしれません。もしも音痴で馬鹿にされていたら、また、喧嘩したあの人が共にいたら、一斉に賛美歌を歌うのが至福と言われても不安が過るかもしれません。私は忍耐が難しいです。

「それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」

裁かれそうだと不安になります。私は無理と思えて来るのです。しかし、それではイエス・キリストの十字架の御苦しみを侮辱することになります。

「万物は御子によって、御子のために造られました。」

この御言葉を読むと、御国は私がイメージできるものから次元がかけ離れたものだと思えます。いわゆる宗教と呼ぶものは人間のためにある気がします。信じているものは宗教だとは思えません。

人間のために神様が造られた御国ではなくて、「イエス・キリスト=神様の愛」のために造られた御国なのではないでしょうか。神様の愛は人間が持てる愛とは違うと思います。「私は在る」と仰るとおりに既に完全に在るのが神様の愛であり、私達人間には到達し得えないものですが、成長させ続けることが許されている愛なのだと思えます。

何もかも視点は神のもの、キリストのものであり、人間のためのものではなかったのです。

「それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。」

天には私達の罪が記されています。それに基づき裁かれるとあります。ここを読むと、自分の罪が天に、蓄えられていく気がして悲しくなります。

一方では、人間の信仰と愛は、天に蓄えられている希望に基づくものだとあります。あなたがたのために蓄えられている希望だとあります。福音という真理の言葉を通してこの希望を聞くことが人間に与えられました。キリストのために、キリストの望みとして与えられたものだと気づきました。

罪が蓄えられる同じ場所に希望が蓄えられるのです。だから罪はなかったことにはならないものだと思います。キリストが完成された律法を知って意識するがゆえに、罪は罪として自覚されます。そして、罪はひたすら赦しを待ち望む呻きとなります。キリストの御名によって祈る呻きは目に見えない希望となるのです。悔い改めに導く悲しみは豊かなものを秘めた悲しみです。天にはこうして豊かに蓄えられていくものがあるのだと思います。天に蓄えられているものに基づいて、人間には不完全な愛と信仰を持ち寄って歩むことが許されているのではないでしょうか。

そして、御国はキリストが望んでいてくださる天のすまいなのです。キリストがキリストのために造られたすまいです。だから高いのです。美しいのです。

ここで空白の一行を入れましょう。この高さに、人間が決して解決出来ない、罪に基づく裁きの問題に触れるキリストの御手を感じるからです。言葉にならない福音があると感じるからです。