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聖書からの黙想などを書いていきたいと思います。

既に復活は

「13キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。

14それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエ スにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。」

ガラテヤの信徒への手紙3章13‐14

自分が非常に情けない状態にあり、興奮気味です。落ち着くために書くことをお許しください。だいぶ前に置換神学について聞いたことがありますが、神学を学ばずに聖書を普通に読んでいますとそれはないと思いました。誰にも分かりやすいのは、ローマの信徒への手紙11章の御言葉です。私は聖書の読み方も足りません。聖書は私のような愚かな者にも縋ったならば応えてくださる不思議な書です。思い起こしてみると、子供時代最初に手にしたのは聖公会の非常にコンパクトな新約聖書でしたが、信仰心を強く抱かせてくれたのは旧約聖書を分かりやすく描いた聖書物語でした。それは中学1年生の終わり頃でした。何というか心に灯火が点って、心が燃えたのです。

復活節となりましたので、復活についてもう少し書いてみたいと思ったり、復活の讃美歌に取り組んでみたいと思ったりしました。けれども最近、復活の聖書箇所や復活の讃美歌を意識的に追わなくても、キリストの十字架に復活が既にはっきりと疑いようもなく示されていることに気が付きました。貧しい馬小屋の中で聖霊により乙女マリアの胎内からお生まれになったことからも、既に復活がはっきりと示されていると気が付きました。

復活は死と罪への勝利です。神様側から本来人間が負うべき問題を解決してくださったという偉大な奇しき御業です。神の御子がわざわざ馬小屋にお生まれになられる意味はただひとつ、人間の罪と死のただ中に介入されるためだと感じます。介入されて勝利される御業が既に現されているとしか思えないのです。マリアとヨセフ、周囲の全てが、復活へ向かって力強く歩まれるキリストが持つ求心力に引っ張られていきます。ストーリーは着々と進みます。馬小屋から十字架へ向かうまでのイエス・キリストの歩まれた軌跡のどこにも罪と死への勝利がはっきりと示されるばかりだと感じています。人間のかたちをとられた最後の十字架上で、イエス・キリストは同じ十字架刑のひとりに救いを宣言しました。いまわの息でありながらです。ご自身が最も残酷な十字架刑にあるさなかで死と罪への勝利を宣言されました。何と力強い唯一の王でしょうか。そしてイエス・キリストは唯一の王であるばかりか、神だとしか思えません。神だから今死んでいるはずがないのです。主イエス・キリストが今生きておられると信じられること自体、復活を信じていることになるのです。

異邦人はイスラエルの民のような祝福をもともとは受けていませんでした。異邦人はイスラエルの民ではありませんから一層この恵みに対して謙虚さを保ち続けないといけないと思います。王はイエス・キリストおひとりです。この地上に於いて自分を王とすることは自分を神とすることに繋がり、謙虚さを失い混乱を生むと感じます。新共同訳聖書には「彼らをわたしたちの神に仕える王、また祭司となさったからです。彼らは地上を統治します。」ヨハネの黙示録5:10 そう書いてあります。他の訳を参照していくと、「10わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。」"10and have made them a kingdom."「10私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」新改訳聖書 そうように書いてあります。神様の御国のご性質を弁えるならば神に仕える王が何をする人であるか分かってくるのではないでしょうか。この世の既存の王ではなく、新しい天と地に於ける全く新しい王です。

また、復活されたイエス・キリストは信じられないでいる弟子たちに、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明されます。(旧約聖書の御言葉です。イスラエルの民に与えられたものです。)

そのあと、イエス・キリストがパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになられました。その時、弟子たちは目が開けてイエス・キリストだと分かりました。弟子たちは、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合います。

「25そこで、イエ スは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、

26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』」

27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

28一行は目指す村に近づいたが、イエ スはなおも先へ行こうとされる様子だった。

29二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエ スは共に泊まるため家に入られた。

30一緒に食事の席に着いたとき、イエ スはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

31すると、二人の目が開け、イエ スだと分かったが、その姿は見えなくなった。

32二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」

ルカによる福音書 24:25‭-‬32

旧約聖書新約聖書を合わせた聖書全体の御言葉に私達は心が燃えるのです。今は敢えて旧約聖書で心が燃えると私は言い切ってみたいです。旧約聖書にはイエス・キリストのことが書かれていて、そのことが分かる時に燃えるような何かを感じますが、それだけではありません。イスラエルについて書いてあっても何が書いてあっても心が燃えるのは、神様の御言葉だからです。意気消沈している時に誰か信頼している人の言葉を聞きたいと思うならば、愛そのものである最も信頼している神様の御言葉を聞いて力を得ない訳はありません。イエス・キリストの復活については、弟子たちには信じられるように、目の前で「裂いて与えてくださる」イエス・キリストの執り成しがありました。今はイエス・キリストを表してくださる約束された霊である聖霊の助けがあるのです。見ないで信じられるのは神様の奇跡的な恵みです。異邦人の私達にもイエス・キリストは呪いからの開放を与えてくださいました。これからは、変わらぬ祝福を受けているイスラエルの民全体の救いが来るのだと思います。イスラエルを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われると書いてあります。異邦人にも呪われることからの解放を望んでくださる神様の恵みにお応えできるように、イスラエルに祝福を祈りたいと思います。

「3彼はこの託宣を述べた。

ベオルの子バラムの言葉。

目の澄んだ者の言葉。

4神の仰せを聞き

全能者のお与えになる幻を見る者

倒れ伏し、目を開かれている者の言葉。

5いかに良いことか

ヤコブよ、あなたの天幕は

イスラエルよ、あなたの住む所は。

6それは広がる谷

大河の岸の園のようだ。

それは主が植えられたアロエの木のよう

水のほとりの杉のようだ。

7水は彼らの革袋から溢れ

は豊かな水を得て育つ。

彼らの王はアガクよりも栄え

その王国は高く上げられる。

8エジプトから彼らを導き出された神は

彼らにとって野牛の角のようだ。

彼らは敵対する国を食らい尽くし

骨を砕き、矢で刺し通す。

9雄獅子のように伏し

雌獅子のように横たわる彼らを

起き上がらせることができる者があろうか。

あなたを祝福する者は祝福され

あなたを呪う者は呪われる。」

民数記24:3〜9

 

(聖句引用元:日本聖書協会 新共同訳聖書 旧約聖書 新約聖書