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聖書からの黙想などを書いていきたいと思います。

不可思議な十字架・呪いとなられたキリスト1

「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。
それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イェスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。」

ガラテヤの信徒への手紙3章13‐14(新共同訳)


神と等しきご身分のイエス・キリストが鞭打たれ侮辱され、
茨の冠を被らされて
重い十字架を背負わされてゴルゴダの丘を上られます。

手足を釘づけにされて木に架けられ、そのまま絶命するまでさらされるという、
最も残酷な刑罰である十字架刑に処された意味は
通常は非常に理解し難いものです。

しかし、信徒のみならず
人間は怖いし残酷であるという性質を知るにつれて
身代わりの十字架が自分に迫って感じられるようになります。

教会の聖礼典でバプテスマ(洗礼式)と並んで重要なものは聖餐式であります。
私の通う教会ではひと月に一回、聖餐式が執り行われます。

聖餐式に与るにあたり、私たちはイエス・キリストが十字架に架けられたことを徹底的に想起することを求められます。

聖餐式の前日までにイエス・キリストの手足の釘を考え、流された血と裂かれた肉について考えます。

このことで毎月自分の罪を知らされます。
イエス・キリストが自分の罪の身代わりになられたことを再確認しなければなりません。
イエス・キリストの御苦しみを直視すると気がおかしくなるように怖いです。
自分の手足に釘が打ち込まれることを考えても悲鳴が出そうになります。

むしろこのようなことと自分を結び付けて生きているのならば、
自分は気がおかしいのだとしか思えなくなります。

罪は消えるのではなく、
神がこのように嘆き悲しみ痛みをもって
赦してくださったのだと再確認しなければなりません。


続きます)

2014年9月28日 21:14:01 記