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聖書からの黙想などを書いていきたいと思います。

安全はどの道か9/9

 

「主はこう言われる。
『さまざまな道に立って、眺めよ。
昔からの道に問いかけてみよ
どれが、幸いに至る道か、と。
その道を歩み、魂に安らぎを得よ。』
しかし、彼らは言った。
『そこを歩むことをしない』と。」
(エレミヤ書 6:16 新共同訳)

「『28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。』」
(マタイによる福音書 11:28‭-‬30 新共同訳)

「主のもとで休もう」という曲を選んでカバーとして演奏し、歌って動画にする行程について記します。

選曲については無の状態から予め主に教えてくださいとお願いしています。今思うとその先は、2011年3月11日に起きた東日本大震災の映像を動画で見ることが始まりでした。と言っても、何か計画を立てたり、閃いたという訳でも何でもなくて、1923年の関東大震災の映像を見た後に関連動画で見たというだけのものです。
当時、停電が続いたこともあり、テレビは観ませんでしたし、以後も映像を追うことはありませんでした。新聞で見た写真にショックを受けて、もう観る気持ちが起きませんでした。
今は自分に向き合うこと、都合の悪いことに向き合うことが延々と続きましたので、この映像も逃げずに向き合った方が良いような気がしたのです。
そして、何本も見続けました。泣いて泣いて何でこんなことがと思いました。怖かっただろう、苦しかっただろうと思うと大水にのまれてしまった人々の脳裏に御国につながる希望が真っ先に浮かんでいたらと思いました。自分もいつかは怖い思いをして死ぬとしても、その先にイエス・キリストにお会いして御国へ行く希望があればいい、そう思うのです。
ならば福音を聞いたことのない人にお伝えしなければならない、お伝えしたいと思いました。しかし、私は言葉も紡げない。それで、もしも主の御心にかなうのならば、自分の持っている手段としてYouTubeの配信をしようと思いました。
エレクトーンが壊れてしまったので、キーボードを毎日少しずつ練習していました。以前コピーしたノア・ミュージック・ミニストリーの「主のもとで休もう」という一段譜を何となくポロポロと弾いていました。印象の薄い曲でしたが、短調の暗めの雰囲気から一気に大波のうねりと底知れない水の映像が浮かんできました。動画を見て泣きながら祈りにならないものを呻きとして捧げたように、呻きのような祈りとして取り組むこととなりました。
曲ができてきて、短時間で夢中で集めたフリー素材で動画にしました。

震災の映像は教訓としてどの方角へ逃げたら良いのか、どうすれば良かったのかを問いかけるものです。そして、決して他人事としてはならないと胸に刻むのです。
思いを巡らせてみましたが、やはり安全な場所は四方を見渡せても無い、この世で弱者の私には無いということでした。逃げられません。
それでイエス・キリストという存在に逃げて行くしかないのです。それは天です。ささやかであってもイエス・キリストという師に倣った生き方をしていくことだと思いました。

決して震災に遭った方々に重ねて言うのではありませんが、私は主がこちらへ行きなさいと言われている気がしても、ぐずぐずしていたり、違う方へ歩んでしまったりします。自分を独りで制御するのが難しくなっています。それは主がいつもご覧になられていますが、何か強い教訓がないとぼんやりとして動けない時が増えてしまいました。

「それについては、次のように言われています。
『今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
神に反抗したときのように、
心をかたくなにしてはならない。』」
(ヘブライ人への手紙3-15 新共同訳)

エレミヤ書の「昔からの道」とは律法を指すものと思われますが、その道に歩むことは難しく、不可能となりました。
私たち人間が、イスラエルの民が反抗してしまったように、安全な安らぎの道から逸れてまうため、イエス・キリストが来てくださいました。イエス・キリストのもとへ来なさいと主が仰ってくださいます。今日という日のうちに共に主に聞き従うことができますようにと祈ります。

「102 あなたの裁きから離れません。
あなたがわたしを教えてくださるからです。
103 あなたの仰せを味わえば
わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう。
104 あなたの命令から英知を得たわたしは
どのような偽りの道をも憎みます。
105 あなたの御言葉は、わたしの道の光
わたしの歩みを照らす灯。」
(詩編 119:102‭-‬105 新共同訳)

「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」
(ヨハネによる福音書14-6 新共同訳)