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聖書からの黙想などを書いていきたいと思います。

聖餐を通して・呪いとなられたキリスト2

聖餐式で何をするかと言ったら、
小さいパンのひとかけらと
小さい盃に入ったぶどう液(ぶどう酒の代わり)を
自分の身代わりになって流されたキリストの血と裂かれた肉を想起するために飲み食いするのであります。

外部の人たちが聞いたら、呆れるか忌み嫌うかといったものであり、
確かに日常生活の中の異常体験であります。

私たち自身もこの聖餐式で聖餐のパンとぶどう液を頂くことに於いては大変な騒ぎです。

疲労困憊してしまうようでありますが、それだけに無事聖餐式を終えると
ものすごくほっとしたり泣いていたりします。

信徒も罪を犯しますが、このようにイエス・キリストの手足の釘や
侮辱された苦しみや
(父なる神との関係すら断絶される)父なる神から見捨てられる悲しみの一切を
既に身代わりとして負ってくださっていたことを思い出して
罪がなかったことになったりはしないのだということを理解するようになります。

赦されるとは赦す側への痛みなくしてはあり得ないことだと気が付きます。
人間は信徒になってもいい人になろうとしてはいけません。

何故なら、いい人になろうとすることは律法、つまり掟遵守を意味しますが、
律法遵守によっては人間は神に従うことができないことが証明されたからです。

神がその律法を与えましたが
人間は守れませんでした。

(この律法は神が選ばれた民であるユダヤ人に与えられたものです。
この律法の呪いという問題は別の切り口から説明されるべきと考えてここでは敢えて触れません)

いい人(義人)になれない私たちは、幼子のように素直に神に謝り、
イエス・キリストに於いて神との関係を常に忘れないように努めなければなりません。

続きます)

2014年9月28日 21:19:07 記