キリストが呪いとなられたことを私の個人的体験を元に説明してみます。
この体験を元にした説明文には今年春頃にハコさんの呪いを聴きながら、思考を組み立てた内容が含まれています。
・・・痛みに負けて怒りを発し赦さないことで、相手へ向けたものは
キリストの手足に見える釘に何時しか向かっていたことに気がつきます。
不思議ですが、相手から向けられた呪いも、罪ある人間への身代わりであるキリストの手足に向けられていると感じるようになります。
相手と自分がイエス・キリストの十字架を仲立ちとして一体と感じるようになっていきます。
相手から向けられた呪いと、自分が向けている呪いが
自分を離れた場所で同化してしまいます。
こうなるとふたつの呪いが自分から離れます。
離れて行っていい加減に消えたのではなく、イエス・キリストの十字架に呪いが移り、イエス・キリストによって神が赦されたのです。
自分の呪いと相手の呪いの仲介者はイエス・キリスト・・・
私は人間に呪いをかける者、醜い者でありながらイエス・キリストがその呪いを自動的に引き受ける摂理により
結果的には常にイエス・キリストだけに呪いをかけることになります。
呪いをかけるはずだった相手から赦しがなくても
相手の身代わりになって呪いをご自分にかけるイエス・キリストが
痛みの中で私を赦されるのです。
自分を神とせずにイエス・キリストを救い主と信じる人は同じように赦されるのです。
癒しと救い、前へ進む力はそこから来るように思います。
それで私は次生きていたら礼拝に行きたいと願います。生きている神に謝り、感謝したいです。
神は痛みをもって赦されたので痛がっておられるから、せめてそうするように頑張らないといけないと感じるからです。
謝ることはいい加減なことではなく、生きる命へ向けた痛みへの宥めなのではないかと思うようになりました。
謝らないと相手の痛みが軽くならないから無様でも謝ったりするのです。
謝って済むことでなくなることがあるし、お互いに、なのです。
人が変わったようにはっきり書いてしまいましたが、気休めを言っていても仕方ない気がして来たからです。
2014年9月28日 21:36:08 記
関連する詩を後日作成しました。
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