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聖書からの黙想などを書いていきたいと思います。

赦せない時間の中で・呪いとなられたキリスト3

人間は赦し切ることが殆ど出来ません。
赦すように神が求められたら、
赦し方を間違えないようにしなければなりません。

赦さなければならないのに赦すことが難しくなると
自分も罪人であり、人のことは言えないとか、
あの人は以前自分を赦してくれたではないか、
あの人には以前借りがあるからとか
私は低い身分だからとか
あの人は身分が高くあの人は素敵だからとか、
それに比べ、自分は猫に過ぎないからとか
段々筋道が可笑しくなっていきます。

赦す場面が頻繁に訪れると
これらの可笑しな筋道まで使うようになり
習慣付いて止められなくなってしまいます。
そこで、指針となる聖書の言葉が必要になります。

「『善が生じるために悪をしよう』とも言えるのではないでしょうか。」(決してそうではないという意味です) 

ローマの信徒への手紙3:8より

赦せなくて苦しくて仕方なくなり、
赦せない相手に感じる悪を自分も行って相手同様になってしまおう、
そうしたら赦せるし平安が来る、
そう思ってしまっていた時にこの御言葉を頂きました。

これは神の造られた摂理ではありませんから
解決出来ないだけでなく、悲惨なことに陥ってしまいます。

相手に悪を感じたのなら
本当に悪かどうかは分かりませんが、何かしら被害を被り傷ついてしまっているのです。

謝りもないなら赦すことを焦る必要はありません。
いったん赦すことを諦めて、興奮が過ぎるようにします。

謝りがないのだから尚のこと度々怒りが込み上げますが
人間が本来怖くて残酷なのを神が認めたのだから
自分の怖さと残酷さは諦めなければなりません。

そして、度々、特に身体に痛みが蘇るために怒りが込み上げるのだということを
自分自身に認めてあげなくてはならなくなります。

身体の痛みなくしてはイエス・キリストの十字架による有り難さは理解し得ません。
この度々込み上げる身体と心に感じる痛みと怒りをじっくり味わいます。
泣いたついでにちょっと寝ないで味わってみます。
そしてイエス・キリストの十字架、イエス・キリストの痛みを考えてみます。


およそ平等など存在しない世界で、一番平等なものは、
命あるものは痛がるという部分だと思います。
イエス・キリストの十字架、イエス・キリストの痛みというものは
過去の歴史上、実際にあった出来事であり、
これは人間が自分でreality をもって描ける範囲のものだと思います。

続きます)
2014年9月28日 21:25:22 記