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聖書からの黙想などを書いていきたいと思います。

朽ちない身体を

もう何十年も前のことです。よく礼拝や集会で信者が導かれた証をすることがありました。×さんに紹介されて教会に初めて来ましたといった話です。私にはそういった証がありませんでした。誰にも言えない、或る強迫観念のようなものに取りつかれて苦しくて仕方なくなり、叔母の結婚式の式場だった教会に行こうと思い立ったのです。その教会には20歳の時に一度、田原米子さんの講演会に訪れたことがありました。駅名は確かに覚えていました。あとは礼拝開始時刻も何も知りません。駅員さんに「この辺に教会、ありませんか?」と訊いて方角を教えてもらいました。開始時刻に間に合いました。全く知らなかったのですが、その日はイースターでした。人間に紹介されたり、来ませんかと勧められて行ったのではありませんでした。何か他の力に引っ張られて行ったのです。祈りが積まれていたからとは表現できます。でも、ひそかに思うところがあります。一歳頃の私に勝手に話しかけたのは人間ではありませんでした。それが私への忌まわしい祟りだったとしても、神様の支配下で起きたことなのです。私は特にそのことに不満や怒りを覚えませんでした。神様の支配下で何か悪いことが起きているという感覚なのです。神様の支配下でまた人間でない何かが教会に行くように話しかけたのです。一歳台からの体験と同様、公に話す訳にはいきません。私は一歳台の体験が悪であり、教会に連れて行かれたのは善でしたと簡単に語る気にはなれません。確かなのは神様の支配下で私に働きかけがありましたということだけなのです。神様の御言葉、福音は、留まることを知らず何とかして伝わるのです。様々なかたちをとって。神様の偉大な御力が働いていない時はありません。なるべく皆に歩調を合わせるように頑張ってはみたのですが、「違ってしまった」現実を歪みとして排除するのはあまりにも酷です。違っていても良いのではないかと思い、書いてみました。教会に行ったら全てが薔薇色になるという訳ではなくて、祟りと恵みの両方がありました。身体は汚れているからだと思います。現在の身体は朽ちるべきものです。朽ちない身体を着るために喘いでいるようです。この汚れた身体を住みかとしている間に、良いことを行おうと喘いでいるのではないでしょうか。最後まで忍んだならば、良い行いを継続的に、永続的に行える身体をいただけます。

こんなにも月日は流れて、今日はイースターです。イエス・キリストのよみがえりの身体に感謝と賛美をおささげしたいです。

 

「『42 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、

43 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。

44 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。

45 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。

46 最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。

47 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。

48 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。

49 わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。

50 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。

51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。

52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。

53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。

54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。 「死は勝利にのみ込まれた。

55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。

58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。』」

 

(聖句引用元:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 15:42~58)