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聖書からの黙想などを書いていきたいと思います。

いけにえと憐れみと挙げられること

「14告白を神へのいけにえとしてささげ

いと高き神に満願の献げ物をせよ。」

詩編50:14

「19しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。

打ち砕かれ悔いる心を

神よ、あなたは侮られません。」

詩編51:19

「8主は逆らう者のいけにえをいとい

正しい人の祈りを喜び迎えられる。」

箴言15:8

「20シェバから持って来た乳香や

はるかな国からの香水萱が

わたしにとって何の意味があろうか。

あなたがたの焼き尽くす献げ物を喜ばず

いけにえをわたしは好まない。」

エレミア6:20

「6わたしが喜ぶのは

愛であっていけにえではなく

神を知ることであって

焼き尽くす献げ物ではない」

ホセア書6:6

 

マタイ9:13

マルコ1:33

ローマ12:1

 

私はあの職につけたなら、あのこと、このことが叶うのにと思いました。それがないから全てが始まらないのだと思い、神様も私を受け入れてはくださらない気がしていました。しかし、それは私にとってあまりにも高いハードルです。自己嫌悪感の中に生きていました。私は寝ていても責め苦を感じて飛び起きるしかないような状態にあります。どうしたらよいか教えてくださいと神様に祈っていました。

今気付くことは、お金も働く努力も生活する工夫もそれら自体は汚れていません。しかし、私はそれらを神様から認めていただく術に、謂わばいけにえにしようとしていました。もしも私が到達できたなら、おささげ出来るものとしていました。今はおささげしない姿勢が生まれていました。

以前に以下の御言葉に触れた時に神様の憐れみを感じ、感動しました。

「7貧しくて羊や山羊に手が届かない場合、犯した罪の代償として二羽の山鳩または二羽の家鳩、すなわち一羽を贖罪の献げ物として、もう一羽を焼き尽くす献げ物として、主にささげる。」

レビ記4:7

神様は山鳩を召し上がる訳ではありません。私たちのささげものを利とされるのではありません。私の感覚は利を求めることに傾き、的から逸れていたようです。

小さいひとつひとつの恵みへ心から感謝をささげることを、主への精一杯の愛の心を、砕かれた悔い改めの心をささげることを望んでおられるのだと、御言葉から感じました。

あれがないと大変だ、これがないと大変だ、終わりだ。これからは感覚的に嵐のようにそうなります。それで挙げられるように準備をしないとならないように思いました。

携挙について感じるところがある御言葉。

「24目覚めている人には上への道があり

下の陰府を避けさせる。」

箴言15:24 

「20何事にも目覚めている人は恵みを得る。主に依り頼むことが彼の幸い。」

箴言16 :20