今年5月に短編小説「隣人」を書く際に、主の在す天と、地上について意識し、実際に上下を行き来するような運動感覚の中に暫く生きていました。そこで宿された「梯子」についての思いの一部を記してみます。
「3 彼らは、『れんがを作り、それをよく焼こう』と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
4 彼らは、『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう』と言った。
5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
6 言われた。 『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。』
8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」
創世記 11:3-9 新共同訳
「10 ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。
11 とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。
12 すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。
13 見よ、主が傍らに立って言われた。
『 わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。
14 あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。
15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。』
16 ヤコブは眠りから覚めて言った。
『まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。』
17 そして、恐れおののいて言った。
『ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。』
18 ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、
19 その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。」
創世記 28:10-19 新共同訳
「50 イエスは答えて言われた。『いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。』
51 更に言われた。『はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。』」
人間は天に我が力を届かせようとして高い塔のある町を建てようとしました。謂わば天に届く梯子を地上から立てるのです。目的は神様にお会いするためではありませんでした。神様を無視して自分達が神のようになろうとしています。そういった計画は頓挫します。神様の御心に全く適わないからです。
天からの梯子が、天から地上へ向けて降ろされる(立てられる)ことが神様による摂理なのだと思います。
神様がおられる天と地上には、人間側からは決して届くことの出来ない距離と隔ての壁があります。
神様と人間との関係はアダムとイブの罪の結果、人間のそのままの姿、生まれながらの姿では壊れたままです。
神様の方から憐れみにより、和解の手立てが与えられました。それが神様と人間の仲保者であるイエス・キリストです。人間の原罪を贖ってくださるお方です。
この方が天から地上に向かって降ろされた(立てられた)梯子となりました。
ヤコブが見た夢では、梯子にはみ使いたち(被造物)が上ったり下りたりしていたとあります。
『はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。』」とあり、イエス・キリストの上に神の天使たち(被造物)が昇り降りするとあります。
これらから、イエス・キリスト御自身が梯子であると考えることが出来ます。
人のかたちをされたイエス・キリストを梯子そのものに見立てることは信仰のジャンプであり、日常生活の様々な場面で、目に見えないキリストを常に見出だす訓練ともなります。
私達がイエス・キリストの御名前によって祈るのは、天に向かって梯子を立てるようなものです。それは神のようになろうとするのではなく、自らの無力を知り、自らを低くして神様にすがるためです。
そのような時、メシアと信じたイエス・キリストを梯子としています。これは唯一、神様の御前に立てることの許される梯子となります。イエス・キリストの御名前によって祈るならば決して一方通行の祈りにはならず、神様はイエス・キリストの御名前による祈りを叶えてくださいます。
イエス・キリストというお方によってしか天に向かっていくことはできません。
私達はここに御国ありと地上で栄えて天に届こうとするのではなく、天に向かって祈り、天に向かって生きていきます。御国が地上にはないことを知っているからです。
このイエス・キリストという梯子が天から地上に向かって降ろされる(立てられる)時が訪れます。イエス・キリストが戻って来られるのです。私達は自分で天に上がるのではなく、イエス・キリストによって天に挙げられます。
「1『心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。』」
再び創世記28:15を記します。
「15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
創世記28:15 新共同訳
「5 トマスが言った。『主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。』
6 イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」