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聖書からの黙想などを書いていきたいと思います。

主のほかに神はない

 旧約聖書ヨブ記には、ヨブは無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていたと書いてあります。
しかし、サタンが主なる神様に言うと、主は仰せられました。


「11『ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。
面と向かってあなたを呪うにちがいありません。』


12主はサタンに言われた。『それでは、彼のものを一切お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。』
サタンは主のもとから出て行った。」
ヨブ記1:11~12


災いがヨブにくだりますが、初めのうちヨブは地にひれ伏して言います。


「21『わたしは裸で母の胎を出た。
裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられよ。』

22このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。」
ヨブ記1:21~22

ヨブのように考えることが神様が喜ばれることだと分かります。
でも、なぜか神様は災いをくだされることがあります。
次々と災いがくだり、ヨブは苦しみますが、神様に相対することを止めません。
神様に訴えることを止めませんでした。
他で気を紛らわしたりしないのです。
気力を失い朦朧となり神様から離れそうなものですが、それがヨブにはありませんでした。
ただおひとりの神様を責めたてる姿が書かれています。

「1ヨブに答えて、主は仰せになった。
2『全能者と言い争う者よ、引き下がるのか
神を責めたてる者よ、答えるがよい。』
3 ヨブは主に答えて言った。
4『わたしは軽々しくものを申しました。
どうしてあなたに反論などできましょう。
わたしはこの口に手を置きます。
5 ひと言語りましたが、もう主張いたしません。
ふた言申しましたが、もう繰り返しません。』
6 主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。
7『男らしく、腰に帯をせよ。お前に尋ねる。わたしに答えてみよ 。
8 お前はわたしが定めたことを否定し
自分を無罪とするために
わたしを有罪とさえするのか。』」
ヨブ記40:1~8

 

「『自分を無罪とするためにわたしを有罪とさえするのか。』」

主がヨブに語られたことばですが、ここに人間に対する神様の御心をうかがい知ることが出来ます。

既に存在する御子イエス・キリストをこの場面に登場させて考えてみるのです。
このように仰せられる主なる神はご自分でご自身を有罪とされました。
どのようにされたかというと、ご自身を引き裂かれ、人のかたちをとられた御子としてご自身をこの世に送られ、ご自身と等しい御子を十字架に架けられたのです。
有罪である私たちを無罪とするためにです。
この人のかたちで現された神ご自身である御子を信じる者を、無罪とするご計画を以て私たちに愛を注いでおられます。

人間は生まれながらにして自らを正しい神とし、有罪であるのに自分を無罪とする性質を持っています。神様はこの性質から変わることのできない人間を救済されるのです。

ヨブがなぜ神様から離れずに、神様を責めたて神様に語り尽くしたのか。
なぜ激しく神様のお答えを待ち望んだのか。
神様が素晴らしいからだと思うのです。
人間の限界などあっさり超えて素晴らしい方を変わらずに偉大で素晴らしいと思い続けられることが幸せに感じました。
私は小さい頃とさして変わらず、乏しいまま、ヨブと友人の語り合う複雑な世界も分からないままです。
けれども、何かを得たら、でなく、解決したら、でなく、自らの満足と関係なく素晴らしい方を変わらずに素晴らしいと思えることが幸せです。
際に立つまで、際を超えてどこまでも、本当にそうだった、本当にそうだと思えるならば幸せです。
永遠に神様を礼拝出来ることに繋がります。
病も稲妻も台風の強風も怖いけれども、神様の偉大さに打ち震えていたいと思います。

私は携帯電話を見ている自分に、偶像崇拝の過ちを感じることがあります。
私が神様から離れて、気を紛らわしたりしているからだと思うのです。
こうして書いて見てもらう形態を選び続けることにも疑問を覚え、主に祈っています。
イエス・キリストにお会いできるのが待ち遠しいと日々はっきり感じられるように成長したいです。

これらの聖書のことばに何によって触れるのかと言ったら、聖霊によるものと言い切れます。
内に聖霊を宿していただいたのに、私の心が鈍くなり聖霊を悲しませることがありませんように。

「31神の道は完全
主の仰せは火で練り清められている。
すべて御もとに身を寄せる人に
主は盾となってくださる。
32主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。」
詩編18:31~32

 

(聖句引用: 日本聖書協会 新共同訳旧約聖書より)