「初めに、ことばがあった。
ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
ヨハネの福音書1章1-5節(新改訳)
天地創造の業について聖書に書かれたこのことばとは、キリスト教に於いてはイエス・キリストを指します。
ユダヤ教、イスラム教、キリスト教に共通する父祖はアブラハムですが、
キリスト教に於いてこのアブラハムは信仰の偉大な父祖であります。
彼は見ないで信じます。
神の祝福と約束を見ないで信じ、そして受け取ります。
神がささげよと仰る通りに見ないでささげます。
私たちは信仰の父祖アブラハムと肉(体)に於いては異邦人であります。
私たちが異邦人でありながら何故アブラハムを偉大な父祖であると信じているかというと、私たちは神の選ばれた民であるユダヤ人と肉体では何の繋がりもないけれども、
イエス・キリストを自らの救い主と信じ、バプテスマを受領することにより、霊的にアブラハムの子孫とされているからであります。
バプテスマとは父なる(唯一神なる)神と(御子イエス・キリスト)子と(神の霊である)聖霊とによって授けられます。
このバプテスマ(洗礼)を受領するにあたって、私たちは今まで神を知らずに生きて来て犯した罪を告白し、悔い改めます。
そして、自分を造ってくださった父なる神ではなく、自分を神として自分中心に生きることを止めにします。
自分の人生を自分中心ではなく、神を中心に生きる生き方に変えることを神と公衆(人々)の前にて告白し、約束します。
このバプテスマ受領以降、私たち信徒には神の霊である聖霊が注がれるようになります。
聖霊が生ける神のことばを指し示す聖書の意味を教えてくださるようになり、イエス・キリストが唯一神なる神の具現化されたお方として神性を余すところなく伝え、神を常に共にいてくださる方として信じることが出来るようにしてくださいます。
続きます)
2014年9月28日 21:01:25 記