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聖書からの黙想などを書いていきたいと思います。

仲介者・呪いとなられたキリスト5

キリストが呪いとなられたことを私の個人的体験を元に説明してみます。

この体験を元にした説明文には今年春頃にハコさんの呪いを聴きながら、思考を組み立てた内容が含まれています。

・・・痛みに負けて怒りを発し赦さないことで、相手へ向けたものは
キリストの手足に見える釘に何時しか向かっていたことに気がつきます。

不思議ですが、相手から向けられた呪いも、罪ある人間への身代わりであるキリストの手足に向けられていると感じるようになります。

相手と自分がイエス・キリストの十字架を仲立ちとして一体と感じるようになっていきます。

相手から向けられた呪いと、自分が向けている呪いが
自分を離れた場所で同化してしまいます。

こうなるとふたつの呪いが自分から離れます。

離れて行っていい加減に消えたのではなく、イエス・キリストの十字架に呪いが移り、イエス・キリストによって神が赦されたのです。

自分の呪いと相手の呪いの仲介者はイエス・キリスト・・・

私は人間に呪いをかける者、醜い者でありながらイエス・キリストがその呪いを自動的に引き受ける摂理により
結果的には常にイエス・キリストだけに呪いをかけることになります。

呪いをかけるはずだった相手から赦しがなくても
相手の身代わりになって呪いをご自分にかけるイエス・キリスト
痛みの中で私を赦されるのです。

自分を神とせずにイエス・キリストを救い主と信じる人は同じように赦されるのです。
癒しと救い、前へ進む力はそこから来るように思います。

それで私は次生きていたら礼拝に行きたいと願います。生きている神に謝り、感謝したいです。

神は痛みをもって赦されたので痛がっておられるから、せめてそうするように頑張らないといけないと感じるからです。

謝ることはいい加減なことではなく、生きる命へ向けた痛みへの宥めなのではないかと思うようになりました。

謝らないと相手の痛みが軽くならないから無様でも謝ったりするのです。
謝って済むことでなくなることがあるし、お互いに、なのです。

人が変わったようにはっきり書いてしまいましたが、気休めを言っていても仕方ない気がして来たからです。

2014年9月28日 21:36:08 記

 

 

関連する詩を後日作成しました。

リンクです。

https://faith62112.blog.fc2.com/blog-entry-761.html

定められた摂理・呪いとなられたキリスト4

神は霊であり(人間が目に見えるようなかたちでの)身体がありませんが、
人間には霊だけではなく、身体を与えられました。

この世では人間はこの身体に縛られているために霊的部分が鈍くなり、
神を見たり感じたりすることがほぼ出来なくなっています。

それで神は身体にしか実感が出来ない人間のために、
イエス・キリストという身体にも痛みを感じる存在にご自分をかえられたことにより、
神が造られた命あるものへの慈愛と救いを説明されました。

命あるものの身体に必ず備えられた痛みをもって
知識教養のない者どころか虫にも当てはまる平等さで救いを人間に教えたのです。

イエス・キリストに私たちは呪いをかけてしまいました。
十字架に架けてしまいました。
十字架につけろ!と叫んだユダヤ人は私たちの姿であることを信徒は知っています。

罪を犯す度にがっかりしますが、身代わりとは本来こういうことだと知るようになります。
自分の力では赦すことすら出来ないし、
罪を犯すことも止められない、
不完全なままで、イエス・キリストの十字架に現された赦しを頂いたこと、頂き続けることを望みとして信じ、信徒となったからです。

再び私はイエス・キリストを十字架に架けてしまうのかというと、
永久に架けてしまうのです。
神がイエス・キリストによって救いを定めた摂理がそうなっているので、恐らくそうなるしかないのです。

続きます)

2014年9月28日 21:29:24 記

赦せない時間の中で・呪いとなられたキリスト3

人間は赦し切ることが殆ど出来ません。
赦すように神が求められたら、
赦し方を間違えないようにしなければなりません。

赦さなければならないのに赦すことが難しくなると
自分も罪人であり、人のことは言えないとか、
あの人は以前自分を赦してくれたではないか、
あの人には以前借りがあるからとか
私は低い身分だからとか
あの人は身分が高くあの人は素敵だからとか、
それに比べ、自分は猫に過ぎないからとか
段々筋道が可笑しくなっていきます。

赦す場面が頻繁に訪れると
これらの可笑しな筋道まで使うようになり
習慣付いて止められなくなってしまいます。
そこで、指針となる聖書の言葉が必要になります。

「『善が生じるために悪をしよう』とも言えるのではないでしょうか。」(決してそうではないという意味です) 

ローマの信徒への手紙3:8より

赦せなくて苦しくて仕方なくなり、
赦せない相手に感じる悪を自分も行って相手同様になってしまおう、
そうしたら赦せるし平安が来る、
そう思ってしまっていた時にこの御言葉を頂きました。

これは神の造られた摂理ではありませんから
解決出来ないだけでなく、悲惨なことに陥ってしまいます。

相手に悪を感じたのなら
本当に悪かどうかは分かりませんが、何かしら被害を被り傷ついてしまっているのです。

謝りもないなら赦すことを焦る必要はありません。
いったん赦すことを諦めて、興奮が過ぎるようにします。

謝りがないのだから尚のこと度々怒りが込み上げますが
人間が本来怖くて残酷なのを神が認めたのだから
自分の怖さと残酷さは諦めなければなりません。

そして、度々、特に身体に痛みが蘇るために怒りが込み上げるのだということを
自分自身に認めてあげなくてはならなくなります。

身体の痛みなくしてはイエス・キリストの十字架による有り難さは理解し得ません。
この度々込み上げる身体と心に感じる痛みと怒りをじっくり味わいます。
泣いたついでにちょっと寝ないで味わってみます。
そしてイエス・キリストの十字架、イエス・キリストの痛みを考えてみます。


およそ平等など存在しない世界で、一番平等なものは、
命あるものは痛がるという部分だと思います。
イエス・キリストの十字架、イエス・キリストの痛みというものは
過去の歴史上、実際にあった出来事であり、
これは人間が自分でreality をもって描ける範囲のものだと思います。

続きます)
2014年9月28日 21:25:22 記

聖餐を通して・呪いとなられたキリスト2

聖餐式で何をするかと言ったら、
小さいパンのひとかけらと
小さい盃に入ったぶどう液(ぶどう酒の代わり)を
自分の身代わりになって流されたキリストの血と裂かれた肉を想起するために飲み食いするのであります。

外部の人たちが聞いたら、呆れるか忌み嫌うかといったものであり、
確かに日常生活の中の異常体験であります。

私たち自身もこの聖餐式で聖餐のパンとぶどう液を頂くことに於いては大変な騒ぎです。

疲労困憊してしまうようでありますが、それだけに無事聖餐式を終えると
ものすごくほっとしたり泣いていたりします。

信徒も罪を犯しますが、このようにイエス・キリストの手足の釘や
侮辱された苦しみや
(父なる神との関係すら断絶される)父なる神から見捨てられる悲しみの一切を
既に身代わりとして負ってくださっていたことを思い出して
罪がなかったことになったりはしないのだということを理解するようになります。

赦されるとは赦す側への痛みなくしてはあり得ないことだと気が付きます。
人間は信徒になってもいい人になろうとしてはいけません。

何故なら、いい人になろうとすることは律法、つまり掟遵守を意味しますが、
律法遵守によっては人間は神に従うことができないことが証明されたからです。

神がその律法を与えましたが
人間は守れませんでした。

(この律法は神が選ばれた民であるユダヤ人に与えられたものです。
この律法の呪いという問題は別の切り口から説明されるべきと考えてここでは敢えて触れません)

いい人(義人)になれない私たちは、幼子のように素直に神に謝り、
イエス・キリストに於いて神との関係を常に忘れないように努めなければなりません。

続きます)

2014年9月28日 21:19:07 記

不可思議な十字架・呪いとなられたキリスト1

「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。
それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イェスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。」

ガラテヤの信徒への手紙3章13‐14(新共同訳)


神と等しきご身分のイエス・キリストが鞭打たれ侮辱され、
茨の冠を被らされて
重い十字架を背負わされてゴルゴダの丘を上られます。

手足を釘づけにされて木に架けられ、そのまま絶命するまでさらされるという、
最も残酷な刑罰である十字架刑に処された意味は
通常は非常に理解し難いものです。

しかし、信徒のみならず
人間は怖いし残酷であるという性質を知るにつれて
身代わりの十字架が自分に迫って感じられるようになります。

教会の聖礼典でバプテスマ(洗礼式)と並んで重要なものは聖餐式であります。
私の通う教会ではひと月に一回、聖餐式が執り行われます。

聖餐式に与るにあたり、私たちはイエス・キリストが十字架に架けられたことを徹底的に想起することを求められます。

聖餐式の前日までにイエス・キリストの手足の釘を考え、流された血と裂かれた肉について考えます。

このことで毎月自分の罪を知らされます。
イエス・キリストが自分の罪の身代わりになられたことを再確認しなければなりません。
イエス・キリストの御苦しみを直視すると気がおかしくなるように怖いです。
自分の手足に釘が打ち込まれることを考えても悲鳴が出そうになります。

むしろこのようなことと自分を結び付けて生きているのならば、
自分は気がおかしいのだとしか思えなくなります。

罪は消えるのではなく、
神がこのように嘆き悲しみ痛みをもって
赦してくださったのだと再確認しなければなりません。


続きます)

2014年9月28日 21:14:01 記

初めに、ことばがあった2

ところで、この尊敬する信仰の父祖アブラハムについて今日新たなお示しがありましたので、頑張って書いてみたいと思います。詩とかを書く状態にない私は携帯があり今日はまだ少し健康があるからやはりこういうことを書いてみたいと思います。

アブラハムは神から命じられて、生まれ故郷を離れて旅立ちます。神はその時同時にアブラハムに祝福の約束を与えられました。

その祝福の約束は、長旅に対する保証や保障のような、良い息子が自分に生まれるとかマンションが当たるとかといった自分への祝福の約束ではありませんでした。

自分の子孫が星の数のようになるという祝福の約束でした。

創世記の太古から私たちの生きる時代以降にまで及ぶ壮大な祝福の約束ですが

普通はこんな祝福は、「遠慮します」と逃げたくなります。

この約束を励みにあてのない長旅をしなければなりません。

この神の召命を受け入れた時アブラハムは75歳でした。

75歳・・・

アブラハムはどういう人生だったかというと、自分と現実的には関わりない見えない何かを伝える人生だったように思います。

まだ見えないもの、神の祝福を自分独りでというのではなくて、星の数ほどの人々と分かち合うことに賭けて生きた人物だったように思います。

それで私は自分が望むところが何もなくなって来たところで

なくなって来ただけに、まだかろうじて持っているものによって、

星の数ほどの人々と分かち合うことに賭けてなら、まだ何か今日はしてみようと思いました。

以降、あてもなく長々と書きます。

 

2014年9月28日 21:05:14 記

初めに、ことばがあった1

「初めに、ことばがあった。

ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
ヨハネ福音書1章1-5節(新改訳)


天地創造の業について聖書に書かれたこのことばとは、キリスト教に於いてはイエス・キリストを指します。

ユダヤ教イスラム教、キリスト教に共通する父祖はアブラハムですが、

キリスト教に於いてこのアブラハムは信仰の偉大な父祖であります。

彼は見ないで信じます。

神の祝福と約束を見ないで信じ、そして受け取ります。

神がささげよと仰る通りに見ないでささげます。

私たちは信仰の父祖アブラハムと肉(体)に於いては異邦人であります。

 

私たちが異邦人でありながら何故アブラハムを偉大な父祖であると信じているかというと、私たちは神の選ばれた民であるユダヤ人と肉体では何の繋がりもないけれども、

イエス・キリストを自らの救い主と信じ、バプテスマを受領することにより、霊的にアブラハムの子孫とされているからであります。

バプテスマとは父なる(唯一神なる)神と(御子イエス・キリスト)子と(神の霊である)聖霊とによって授けられます。

このバプテスマ(洗礼)を受領するにあたって、私たちは今まで神を知らずに生きて来て犯した罪を告白し、悔い改めます。

そして、自分を造ってくださった父なる神ではなく、自分を神として自分中心に生きることを止めにします。

自分の人生を自分中心ではなく、神を中心に生きる生き方に変えることを神と公衆(人々)の前にて告白し、約束します。

このバプテスマ受領以降、私たち信徒には神の霊である聖霊が注がれるようになります。

聖霊が生ける神のことばを指し示す聖書の意味を教えてくださるようになり、イエス・キリスト唯一神なる神の具現化されたお方として神性を余すところなく伝え、神を常に共にいてくださる方として信じることが出来るようにしてくださいます。

続きます)

2014年9月28日 21:01:25 記