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聖書からの黙想などを書いていきたいと思います。

マリアが選んだもの

出エジプト記の16章に記されているように、イスラエルの民は荒れ野でマナを食べました。主なる神様は民が主の指示通りにするかどうかを試されました。六日間はマナを集めますが七日目は安息日なので集めてはなりません。しかし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集めたものの二倍になっていたのです。

五日の間は、誰もそれを翌朝まで残しておいてはならないとモーセは民に言いました。イスラエルの民が言いつけを破り集めたものを翌朝まで残しておいたところ、虫がついて臭くなりました。六日目に集めたものは翌朝まで残しても臭くならず、虫もつきませんでした。『今日はそれを食べなさい。今日は主の安息日である。今日は何も野には見つからないであろう。』とモーセは言いました。七日目になって民のうちの何人かが集めに出て行ったのですが、野には何も見つかりませんでした。

民は何度もモーセを通して語られる主の導きを拒んでしまいました。

安息日には飲み食いのために働かずに休むけれども、主に全く信頼するならば困ることにはならないという教えに繋がります。

モーセを通して語られる主の仰せを守らずに朝まで残しておくと、マナは臭くなって食べられませんでした。また、安息日には野には何もないと言われても信じないで集めに出て行きましたが、何も見つからず徒労に終わりました。思い煩い、自分の力に頼った結果は、かえって無駄になり、困るようになるということです。

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」
マタイによる福音書 6:33 口語訳

「主は答えて言われた、『マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。

しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである』。」
ルカによる福音書 10:41‭-‬42 口語訳

マルタは立派に立ち回り、働き者の勤勉な女性だったことでしょう。しかし、マルタはイライラしています。たくさん思い煩わずにはいられず、困っているのです。

一方のマリアは見るからに図々しくて危なげであり、早速マルタからひんしゅくを買いましたが、その結果は困らなかったのです。

マルタが選んだ順序では、マルタにはマリアが得ている平安が生まれません。マリアの平安とは全く別れています。

神と富に同時に仕えることが出来ないのと同じ摂理が働くからです。

まず神の国と神の義を求めれば添えて与えられるという御言葉が実現しています。

自分の選択の誤りによって平安が得られなかったマルタには、神と人との仲保者であるイエス・キリストのお言葉による癒しが与えられたことと思われます。それは囚われからの解放であり、赦しだったのだと感じます。

まず神の国と神の義を求めなさいというのは努力目標ではなく、そうしなければ神様と関係が持てずに滅んでしまうというようなものです。

本当にイエス・キリストだけに我が身を投げ出した時に、一日分だったマナが二日分に増えると信じていいのです。安息日の安息を守ることがマリアが選んだ順序です。全く主に信頼して、他のものを全て投げ出してイエス・キリストの御言葉を聞いていたのです。

主の祈りの順序もそうなっています。

天におられる私たちの父よ

1御名を崇めさせてください

2御国よ来てください

3天におけるように地にも御心をなしてください(あなたの義を求めます)

4私たちの日々の糧をお与えください

5負い目のある人を私たちが赦しましたように私たちの罪をお赦しください

6私たちを誘惑に遭わせずに悪より救い出してください

7国と力と栄えとは永遠にあなたのものだからです  アーメン

 

神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。」
ローマ人への手紙 14:17 口語訳

イエス・キリストと共に食事をする幸いが御国です。

悪霊追い出しや病の癒しも、そこに一切混ぜ物なしでイエス・キリストの御名前があるかどうかが大事です。イエス・キリストだけが、悪霊追い出しと癒しを行う時に同時に罪を赦しておられました。罪を赦す権限を持っておられるのはイエス・キリストだけです。

イエス・キリストの御名前によって悪霊を追い出せた弟子たちに、イエス・キリストは「あなたがたの名が天に記されていることを喜ぶように」と言われました。イエス・キリストにあって神様と関係を結ぶことができていることを喜びなさいと仰られたのではないでしょうか。

この地上で権威を持てたことではなく、御国に覚えられた存在となれたことだけを喜ぶべきなのです。様々な混乱、誘惑、思い煩いから逃れるためです。

イエス・キリストを思い描く時には十字架上で自分の身代わりになってくださった御姿を浮かべます。それが王であるキリストの御姿です。メシアであるイエス・キリストにあって神様と関係を持つならば御国の実現へ向かうことができます。

第一コリント13章の『愛』を十字架上のイエス・キリストに置き換えて読んでみましょう。十字架上のイエス・キリストは十字架から決して降りずに忍耐されました。寛容で情け深く、妬みもなく、高慢にならず自慢もしない。ご自分の利益を求めない。苛立たず、恨まない。不義でなく真理を喜び、すべてを忍ばれ、すべてを信じ、すべてを望んで、すべてを耐えられました。

「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。

不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。

不義を喜ばないで真理を喜ぶ。

そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」
コリント人への第一の手紙 13:4‭-‬7 口語訳

イエス・キリストの御名前によって祈る時、行う時、また、イエス・キリストの御名前によって生きる時、人間は父なる神様と関係を持つことができます。

イエス・キリストのご臨在が神の国、神の義であり、全ての被造物の創造秩序の源である御言葉そのものです。

マリアが選んだように、まずイエス・キリストの御臨在へ我が身を投げ出しましょう。私たちが真っ先に選ぶ宝物がイエス・キリストであれば、御国に心を置いているということになります。この世では不器用に見えても、後で困るようなことにはなりません。

「『あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。』」

マタイによる福音書6:21